~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 道徳の神髄「仁・義・礼・智・信」
ところで本書を訳し終えて、いささか補っておきたい所がある。「義」についてである。
新渡戸は、武士道の基本的精神を「勇猛果敢なフェア・プレーの精神」として「義」を支柱に置きながら、その説明が十分とはいえなかった。おそらく新渡戸の生きた時代と現代のわれわれとの間に、「義」に関する理解のへだたりがあるからではないかと推測する。そこで少し追加説明しておくと、「義」とは、簡潔にいえば、不正や卑劣な行動をみずから禁じ、死をも恐れない正義を遂行する精神のことである。
ためしに「義」という言葉を辞書で引くと、「①道理。条理、物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。(略)②利害を捨てて条理に従い、人道・公共のためにつくすこと。(略)(『広辞苑』岩波書店)とある。すなわち「義」とは、打算や損得のない人間としての正しい道、「正義」のことである。「道義」「節義」もこれにあたる。
ついでなから、義から派生した語彙ごいには、大義、忠義、仁義、恩義、信義などがあり、さらには義理、義務、義憤、義俠、義士、義挙などたくさんある。いずれも人として行う正しい道にもとづいている。ということは、いかにかつての日本人の精神の中で、この「義」が重要な位置を占めていたかがわかる。
それゆえにサムライは、この「義」を踏み外せば、「武士道にもとる」、あるいは「卑怯者」として糾弾の対象になったのである。新渡戸がいうように、なんと厳しい掟であることか。
なぜなら、簡単に「人としての正しい行い」といっても、それらは個人的な観念であり、いわば“道徳モラル”である。実行しなければ罰せられる“法律ルール”とは違う。法律ならば、してはいけないことが成文化されているので明確にわかるが、自己の観念にもとづく道徳は、人間の内面に据えられた“良心の掟”であり、その基準は個人によって捉え方が異なるからである。
では、良心の掟を普遍的な道徳たらしめるものとはなんなのか。
新渡戸もいうように、日本人の道徳律は儒教に負うところが大であるが、孔子はそれを「五常の徳」を主体として、さらには忠・孝・ていを合せた「八つの徳」で“人の倫”を説いて来た。
五常の徳とは、「仁・義・礼・智・信」のことであり、簡潔にいえば、「仁」とは思いやり、「義」とは正義の心、「礼」とは礼儀・礼節、「智」とは叡智・工夫、「信」とは信用・信頼のことである。そして「忠」とはいつわりのない心、「孝」とは父母を大事にすること、「悌」とは年長者に従順なことをいう。具体的にいうなら、「人にはやさしくあれ」「正直であれ」「嘘をつくな」「卑怯なことをするな」「約束を守れ」「弱い者をおじめるな」「親孝行をしろ」「兄弟仲よく」といったことで、これらの想いを「良心」というのである。それゆえに、われわれはこのモラルを犯すと良心の呵責かしゃくに襲われるのである。
2020/09/26
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