~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● なぜ「義」は武士道の支柱なのか
では、なぜ武士道は、多くの徳目の中で「義」をトップの支柱に置いたのか。
その理由の第一は、人としての正しい道である「義」が、他の徳目と比べた場合、もっとも難しく、“治世の術”としていちばん重要だったからである。なぜなら、「義」はサムライのみならず、いかなる人間においても、どのような社会に会っても、人の世の基本となるもので、もしこの「義」(正義)が守られなければ、嘘が飛び交い、不正がはびこり、平穏な秩序ある社会など築けないからだ。つまり「正義」こそは、人間が社会的動物として生きるうえでの普遍的な根本原理なのである。
この正義の大切さについては、内村鑑三が自著『代表的日本人』の中で、最大のサムライと称えた西郷隆盛の例をあげ、次のように言葉を掲げていることからもわかる。
《西郷にとり「正義」ほど天下に大事なものはありません。自分の命はもちろん、国家さえも、「正義」より大事ではありませんせした。西郷はいいます。
「政道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大さを恐れ、平和を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の恥辱を招く。その結果、友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる」》
(『内村鑑三の「代表的日本人」を読む』岬 龍一郎 著・到知出版社)
本物のサムライであった西郷は、わが命よりも、国家よりも、「正義を貫くこと」がすべてであり、国家間の交際ですら、そのもとは正義であるというのである。
このように為政者側の武士は、江戸中期あたりから軍人的性格より行政官としての任務が強まるにつれ“民の見本”となることが要求されはじめると、その実践者として、なによりも「義」を遂行することが義務づけられたのである。したがって武士道では、なにが人として正しい行いなのかを徹底的に教え込まれ、つねに行動判断の基準をこの「義」におき、それを犯した者は「卑怯者」の汚名を着せられたのだ。
とはいえ、この「義」を遂行することは、口で言うほど簡単なことではない。なぜなら、義の中には「人としての正しい行い」と同時に「打算や損得を離れて」という意味が含まれているので、人間の根源的なエネルギーとされる“欲望”をかなり制御しなければ成り立たないからである。
たとえば、現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どっちが得か」という相対的なものである。しかもこの精神は、数字で比較できる経済的なものには効力を発揮するが、目に見えないもの、つまり正義とか心のやさしさとか人情といったものには適合しにくい。だが、武士道における「義」は、普遍的な良心の掟にもとづく絶対的価値観を基準にしているので、いわば不合理の精神である。いかに不合理であるかは、「正義のためには死をも辞さない」という言葉ひとつでもわかる。武士道においては、「生命」よりも「正義」のほうが大切なのはこのためである。
したがって、こうした「義」を遂行するにあたっては、よほどの自律心が養われていなければ至難のわざということになる。自律心とは、文字通り「みずからを律する心」のことである。「かくあるべし」とする規範の確立といってもよい。
ところが、今日の戦後社会では、合理的価値観のみを金科玉条きんかぎょくじょうのごとく信じ込み、「どっちが得か」の打算主義だけがまかり通り、よほどの人格的修養を積んでいないと、とてもじゃないが「義」など実行できるはずもないのである。
その証拠に、現代人にとって、いまや「義」は古くさい徳目としてどこかに忘れ去られ、私利私欲のためには「勝てば官軍」「見つからなければ罪ではない」まどと勝手な理屈をつけ、卑劣で、狡猾こうかつで、許しがたい不正行為が平然とはびこっているではないか。「じぶんさえ得すればいい」とばかりに理不尽なリストラを行う経営者、仕事もしないで税金の無駄遣いをしている天下り官僚なども同類である。そこには「正義」や「人情」などみじんもなく、「義」より「打算」が勝っているのが現代なのである。
2020/09/26
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