~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 仏教と神道が武士道に授けたもの
まずは仏教から論じよう。仏教は武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心を与えた。具体的にいうならそれは危難や惨禍さんかに際して、常に心を平静に保つことであり、生に執着せず、死に親しむことであった。
ある一流の剣術の師匠(柳生やぎゅう但馬守たじまのかみ宗矩むねのり)は、剣の極意を会得した弟子(徳川家光)に「私が教えられるのはここまで、これより先は禅の教えに譲らねばならない」と告げた。「禅」とはディアーナ(Dhyana)の日本語訳であり、それは「言語による表現範囲を超えた思想の領域へ、瞑想ををもって到達しようとする人間の努力を意味する」
その方法は座禅と瞑想であり、その目的は私の理解する限りでいえば、あらゆる現象の根底にある原理について、窮極においては「絶対」そのものを悟り、その「絶対」と自分を調和させることである。このように定義すれば、その禅の教えは一宗派の教義を超えている。そしてこの「絶対」を認識し得た者は誰でも、俗世的なことを超越して「新しき天地」を自覚することが出来るのである。
仏教が武士道に与えられなかったものは、日本古来の神道がそれを十分に補った。他のいかなる宗教からも教わらないような、主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝心などの考えは、神道の教義によって武士道へ伝へられた。
それによってサムライの傲慢な性質に忍耐心や謙譲心が植えつけられたのである。
神道の理論にはキリスト教でいうところの「原罪」という教義はない。むしろ逆に、人間の魂の生来の善良さと神にも似た純粋さを信じ、魂を神の意志が宿る至聖所としてあがめている。神社にもうでる者は誰もがすぐに、その礼拝の対象物や装飾的道具がきわめて少ないことに気づくだろう。奥殿に掲げられている一枚のかがむだけが主要なものであるからだ。
なぜ鏡だけなのか。これについては簡単に説明がつく。すなわち鏡は人間の心を表している。心が完全に平静でんでいれば、そこに「神」の姿を見ることができる。それゆえに人は社殿の前に立って参拝する時、おのれ自身の姿を鏡の中に見るのである。そして、この参拝という行為は、古代ギリシャのデルフォイの神託、「汝自身を知れ」に通じるものがある。
自分を知るということは、古代ギリシャの教えでも日本の教えでも、人間の身体的部分についての知識、すなわち解剖学や精神物理学を意味するものではない。それは道徳上における知識であり、私たちの道徳的性質を顧かえりみる内省のことである。
ドイツの政治学者モムゼンは古代ギリシャ人と古代ローマ人を比較して、ギリシャ人は礼拝する時眼を天に向けるが、ローマ人はその頭をベールでおおう、と言っている。前者の祈りは黙想であり、後者の祈りは内省である。
となれば、われわれ日本人の礼拝の仕方は本質的にはローマ人の宗教観と同じだが、その内なる道徳意識は個人的というより、むしろ民族的な意識を表していると言える。
そして神道の自然崇拝は、われわれに心の底から国土をしたわせ、祖先崇拝はそれをたどっていくことで皇室を国民全体の祖としたのである。私たちにとって国土とは、金を採掘し、穀物を収穫する単なる土地以上のものである。つまりそこは先祖の霊の神聖な住処すもかなのである。それゆえに私たちにとって天皇とは、法治国家の長、あるいは文化国家の単なる保護者ではなく、それ以上の存在となる。いうなれば天皇は地上における天の代表者であり、その人格の中に天の力と慈悲とを融合しているのである。
英国の王室について、ブートミー(フランスの教育者)は「それは権威を表すだけでなく、国民統合の創始者にして象徴でもある」と言っているが、それが本当だとするならば、私はそれに賛同する者であり、同時にこのことは日本の皇室においては二倍も三倍にも強調すべきことである。
神道の教義には、わが民族の感情面で二つの大きな特徴が含まれている。愛国心と忠誠心である。アーサー・メイ・クナップが、「ヘブライ文学では作者が神のことを語っているのか、それとも自国のことなのか、天のことなのか、エルサレムのことなのか、救世主なのか、国民なのか、これらを見分けることはしばしば困難である」と指摘した。まことにその通りである。このような混乱は日本の国民的信仰(神道)の用語にも見られるようだ。
私があえて混乱というのは、神道はその用語のあいまいさゆえに、論理的な識者からはそうみなされて当然だからである。だが、たとえそうであったとしても、国民の崇敬と民族的感情の枠組みとなっている神道は、体系的な哲学や合理的な教義をよそおうよなことは決してしない。
この宗教 ──というより、宗教が表している民族的感情といったほうがより正確だろうが ── 神道は、とりもなおさず武士道の中に主君への忠誠と愛国心を徹底的に吹き込んだのだ。これらは教義というよりもむしろ情念として作用している。したがって、中世のキリスト教の教会とは異なって、神道は信者になんの信仰上の約束も命じず、むしろ直截ちょくさいで単純な行為の基準をあたえたにすぎなかったのである。
2020/08/23
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