~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 礼の最高の形態は「愛」である
日本人の美しき礼儀の良さは、外国人旅行者の誰もが認めるところであった。だが、もし礼が「品性の良さ」を損なう恐れがあるがために行われるのであれば、それは貧弱な徳といわねばならない。なぜなら、礼は他を思いやる心が外へ表れたものでなかればならないからだ。
それはまた、物事の道理を正当に尊重することであり、それゆえに社会的な地位を当然のこととして尊重する意味も含まれている。しかもそれは金銭上の貧富の差を問うのではなく、いかに人間として立派かを問うのであり、心の価値にもとづく区別なのである。
礼の最高の形態は、ほとんど愛に近づく。それは私たちにとって敬虔な気持ちをもって、「礼は寛容にして慈悲深く、人を憎まず、自慢せず、高ぶらず、相手を不愉快にさせないばかりか、自己の利益を求めず、いきどおらず、恨みを抱かない」ものであるといえる。ディーン教授(アメリカの動物学者)が人間としての六つの要素を揚げ、その中でも礼に人間関係の最高の地位を与えているが、これはむしろ当然と言えるだろう。
私はこのように礼を高く評価するが、かといって数ある徳目の中で最高位に置いているわけではない。令を分析してみると、礼はさらなる高位の徳と関係していることがわかるからだ。もともと徳というものは孤立して存在しているわけではない。とくに礼は武人特有のものと賞賛され、本来の価値以上に尊重されているが、それゆえに偽物が生じているようにも思われる。孔子自身も、うわべだけの作法が礼儀ではないことは、音が音楽と同一ではないのと同じことだと繰り返して説いている。心がもっていなければ礼とは呼べないのである。
礼儀作法が社交の必須条件にまで高められると、青少年たちに正しい社会的な振舞い方を教え込むために、詳細な作法の体系がもてはやされるようになうことは、当然のこととして予想された。人に挨拶あいさつする際のお辞儀の仕方、歩き方、座り方など、こと細かな注意が教えられ、学ばされた。食事の作法は学問にまでなった。茶をてて飲むことは、礼式にまで高められた。教養ある人はこれらの作法のすべてに通じていることが期待されたのである。その意味で、いみいくもヴェプレン(アメリカの社会学者)が、その快著の中で「行儀作法とは有閑階級の生活の産物であり、かつその見本である」と言い放っているのは、けだし正解と言ってよいだろう。
わが国のきめ細かい礼儀作法について、私はヨーロッパ人たちが軽蔑的な批評をしているのを聞いたことがある。彼らの批判は、そのようなしつけけが私たちの柔軟な思考力を奪い、あまりにも厳格な礼儀作法は馬鹿げて見える。と言うのだ。たしかに、わが国の礼儀作法の中には不必要なほどのくどさがあることを私も認めている。だが、西洋人のたえず変化する流行へのこだわりほど、馬鹿げているかどうか、私にはわからない。
ただ私は、流行でさえ、単なる虚栄心の気まぐれとは考えていない。逆にこれらを、人間の飽くなき美への探求心とみている。ましてや念入りな礼儀作法をまったく取るに足らないものとは思っていない。なぜならそれは、ある成果を達成するために、もっとも適切な方法を長い年月をかけて試行してきた結果であるからだ。
何事であれ、もし何かをしようとすれば、それを為すための最善の方法というものがあるはずである。そしてその最善の方法とは、もっとも無駄がなく、もっとも優美なやり方になるであろう。
スペンサー(英国の社会学者)は、「優美とはもっとも無駄のない動き」と定義している。たとえば、茶道は茶碗や茶杓ちゃしゃく茶巾ちゃきん などの扱いに一定の決まった作法を示す。それは初心者には退屈にすら思える。けれどもやがて、そうした定められた作法が、結局はもっとも時間や労力の節約になっていることに気づく。要するに、それがもっとも無駄のないやり方であり、スペンサーのいうところの「優美な方法」であることを発見するのだ。
社交的な礼儀作法の精神的意義とは何なのか。カーライル(英国の思想家)の『衣服哲学』の用語を借りれば、作法や儀礼は精神的規律の単なる上着ということになるのだが、その意義は外見だけでは計りがたい大きなものが潜んでいるといえる。
スペンサーの例に なら って、わが国の儀式制度や礼儀作法の起源、あるいはそれらを生みだした道徳的な動機をたどることも出来ようが、それは私が本書で取り上げるべきものではない。私がここで強調したいのは、礼を厳密に守ることにともなう道徳的訓練についてである。
作法は細部にわたって念入りに定められているため、それぞれが別の様式を唱えて、いろいろな流派が誕生した。だがそれらは根本的なところではすべて一致している。もっとも有名な礼法の流派である小笠原宗家(小笠原清務)の言葉によれば、
「礼道の 要諦 ようてい は心を 陶冶 とうや することにある。礼をもって端座すれば、囚人剣を取って向かうとも害を加うること あた わず」という。つまり、正しい作法をたえず訓練することによって、身体のあらゆる器官と機能に完全な秩序をもたらし、肉体と環境とを調和させることによって、精神の支配をおこなうことが出来る、というのである。
その意味でフランス語の binenseance ビアンセンス (礼儀)という言葉は、何とあたらしく深い意味を持っていることか。
優美さが無駄を省いた作法という言葉が真実なら、優美な立ち居振る舞いのあくなき練習は、論理的に言えば、内なる余力を蓄えることにつながる。したがって洗練された作法というものは平静状態の無限なる力を意味する。あの野蛮なゴール人がローマを掠奪して元老院の集まりに乱入した時、無礼にも元老たちの ひげ を引っ張ったというが、責められるべきは元老たちである。なぜなら、もし元老たちに威厳に満ちた立ち居振る舞いがあれば、そうした事態を招くことはなかったと思えるからだ。では、作法を通じて本当に高い精神的境地に達することが出来るのか。いや、なぜ出来ないことがあろうか。すべての道はローマに通じるのだ!
2020/09/08
Next