~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 武士の約束に証文はいらない
真実と誠実がなければ、礼は茶番であり芝居である。伊達政宗は「度が過ぎた礼はへつらいとなる」という。あるいは菅原道真の「心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん」の道歌は、ポローニアス(『ハムレット』の登場人物)をしのいでいる。
孔子は『中庸』において誠を尊び、これに超越的な力を与えて、ほとんど神と同一視した。いわく「誠は物の終始なり、誠ならざれば物なし」と。孔子が熱心に説くところによれば、誠は遠大にして不朽であり、動かずして変化をつくり、しれを示すだけで目的を遂げる性質を持っているという。「言」と「成」からできている誠の文字を見ると、新プラトン学派のロゴスの説と比較してみたくなる。このような高さまで、孔子は非凡な神秘的能力で到達したのである。
嘘をついたり、ごまかしたりすることは卑怯者とみなされた。武士は支配者階級にあるだけに、誠であるかどうかの基準を、商人や農民よりも厳しく求められた。「武士の一言」すなわちサムライの言葉は、ドイツ語の「リッターヴォルト(Ritterwort)に当たるが、それはその言葉が真実であることを保証した。
それほどの重みを持った言葉であるだけに、武士の約束は通常、証文なしに決められ、実行された。むしろ証文を書くことは武士の面子めんつけがされることであった。
「二言」つまり嘘をついたという二枚舌のために、死をもってあがなった壮絶な逸話が日本では多く語られている。
本物の武士は「誠」を命より重く見ていたので、誓いを立てるだけでも名誉を傷つけるものと考えていた。その点では、一般のキリスト教徒が彼らの主の「誓うことなかれ」という明白な教えを、絶えず破っているのとは大いに違う。
とはいえ、サムライが八百やおよろずの神々や自分の刀にかけて誓ったことを私は知っている。だが、彼らの誓いはたわむれの形式や不敬虔けいけんな祈りになることは決してなかった。ときには、その言葉を確固たるものにするために文字通り血判を押すという行為もとられた。こうした行為の説明には、読者にゲーテの『ファウスト』を参照されることを勧める。
最近、一人のアメリカ人が著書を書いて、その中で「もし、普通の日本人に対して、嘘をつくのと礼を失するのと、いずれを取るかと尋ねれば、ためらわず、嘘をつくことと、答えるだろう」と述べていた。この本を書いたピーリー博士(アメリカの宣教師)のこの説は、一分には正しく、一部では間違っている。正しいというのは、普通の日本人は、サムライのみならず誰でもそう答えるからである。間違っているというのは、博士が「嘘」という日本語の言葉を「フォールスフッド(false-hood)と訳して、その言葉に重みを置きすぎたということである。「嘘」という日本語は、「真実(まこと)以外、「事実(ほううとう)のいかなることを語る場合にも使われる言葉なのだ。ローウェル(アメリカの詩人)によれば、「ワーズワースは真実と事実の区別がつかなかった」と言ったが、その点では普通の日本人はワーズワースに変わらない。
たとえば日本人に、あるいはある程度洗練されたアメリカ人に、「私が嫌いですか」「あなたは胃の調子が悪いのですか」などと、尋ねてみるがよい。相手はためらうことなく嘘をついて「いや、あなたが好きですよ」「とても元気です」と返答するだろう。だが、これに反して単に礼儀を欠かないためにつく嘘は、「虚礼」とか「甘言による欺瞞ぎまん」とみなされたのである
2020/0909
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