繊細な名誉への感覚が、病的ともいえる過度の行為に陥ることに関しては、寛容と忍耐の教えがしれをくい止める働きをした。ささいな刺激で怒る者は「短気」として笑い者にされ、よく知られた諺にも「ならぬ堪忍、するが堪忍」というのがある。あるいは偉大な武士であった徳川家康は、後世の人に「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。堪忍は無事長久の基もとい・・・。己を責めて人を責むるばからず」との教訓を残している。家康はその生涯をかけて、みずからは説いたことを実証した人であった。
松浦まつら青山せいざん(平戸藩)という武士が、わが国の歴史上でよく知られる三人の人物を取り上げ、その特徴を見事に示す警句を作っている。織田信長には「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥ほととぎす」と詠わせ、豊臣秀吉には「鳴かぬなら鳴かせてみよう時鳥」、そして家康には「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」と詠わせた。
孟子もまた忍耐と我慢を大いに推奨した。あるところで彼は「あなたが裸になって私を侮辱しても、それが私にとって何だというのか。あなたの乱暴で私の魂を汚すことは出来ない」と書いている。またほかのところでは、「些細なことで怒るようでは君子に値しない。大義のために憤おこってこそ正当な怒りである」と説いている。
武士が戦いを好まず、我慢を強いて柔和な境地に到達したことについては、鍛錬されたサムライたちの言葉から窺うかがい知ることが出来る。たとえば小河立所は「人の誣しうるに逆らわず、己が信なだざるを思え」と言い、熊沢蕃山は「人の咎むとも咎めじ、人は怒るとも怒らじ、怒りと欲を棄ててこそ常に心は楽しめ」と言っている。
もう一つの例を西郷隆盛の遺訓から引用しておこう。
「道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心をもって人を愛するなり」(西郷南洲遺訓)
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」(同)
これらの言葉にはキリスト教の教訓を思わせるものがあり、実践的な道徳においては自然宗教がいかに啓示宗教に近づくかを示している。これらの言葉は単に言葉として語られたものではなく、サムライたちの実際の行動として体現させられたものなのである。 |
2020/09/11 |
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