~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 日本人の「忠義」の独自さ
封建道徳の多くの徳目は、別の倫理体系や異なった階級の人々とも共有しているが、忠義という徳、すなわち主君に対する服従や忠誠の義務だけは、独立した特色を示している。私は個人的な忠誠が、あらゆる種類の人々や境遇においても存在する道徳的な結びつきであることを承知している。スリの一味であるフェイギン(ディケンズの小説『オリバー・トウィスト』の中の人物)のような親分にさえ忠誠を捧げている。だが、忠誠心が最高に重んじられるのは、武士道の名誉の掟においてのみである。
ヘーゲル(ドイツの哲学者)は、封建制の臣下の忠誠が、国家に対してではなく個人に向けられたものであったことから、そのような義務は不当な原理のうえに成り立つきずなであると批判した。にもかかわらず、彼と同国人であるビスマルクは、個人に対する忠誠心がドイツ人の美徳であるとしてそれを誇りとした。彼がそうみなしたことには十分な理由があった。なぜなら、彼が誇りとした「忠義(Treue)」は祖国、あるいは一国家、一民族の占有物であるからではなく、騎士道における好ましい果実が、もっとも長くまで残されていたからである。
「万民の平等」を唱え、これにアイルランド人がつけ加えたように「同時に、誰よりも優れている」と思っているアメリカでは、私たち日本人が君主に対して感じるような気高い忠義の観念については、「一定の範囲内においては優れたもの」であるが、わが国民が奨励したように甚だしいのは不合理だと思うであろう。
モンテスキューはかつて、「ピレーネ山脈のこちら側では正しくとも、向う側では誤りとなる」と嘆いたが、最近のドレフュス事件では、彼の言葉が正しかったことが証明された。フランスの正義が通用する国境はピレーネ山脈のみではなかったのである。これと同様に、私たち日本人が抱く忠義の観念は、他の国ではほとんどその賛成を得られないだろう。それは私たちの観念が間違っているからではなく、いまや他の国では忠義が忘れ去られていたり、他のいかなる国も到達出来なかった高さまで日本人が発達させたからである。
グリフィス(アメリカの教育者)は、「中国では孔子の道徳が親への服従を人間の第一の義務としたのに対して、日本では忠義が第一に置かれた」と述べたが、まさにその通りである。もしかしたら、善良なる読者には衝撃を与えるかも知れないが、シェークスピアが言ったように「落ちぶれた主君に仕えて苦難をともにし」、それによって「物語に名を残した」一人の忠臣についての話をしよう。
2020/09/12
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