~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 武士道は個人よりも公を重んじる
西洋の個人主義は、父と子、夫と妻に対して別々の利害を認めている。そのために一方が他方に対して負っている義務は著しく軽減する。しかし、武士道においては、一族や家族の利害は一体不可分である。武士道はこの利害を愛情、すなわち本能にもとづく抵抗できない愛の絆で結びつけた。したがって、もし私たちが動物でさえ持っている自然愛によって、愛する者のために死ぬとしても、それが何であろうか。「自分を愛してくれる人を愛したところで、何の報いを受けるだろう。徴税人でも、同じ事をしているではないか」とキリストも言っている。
頼山陽はその大著『日本外史』の中で、父清盛が方法に対して反逆した時、その子重盛の苦衷くちゅうを「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と感動的に書いている。哀れなるかな重盛! 私たちは後に重盛が、慈悲ある天が彼に死を与え、純潔と正義が住み難いこの世から解き放ってくれるよう、全霊を傾けて祈る姿を見るのである。
これまでも重盛のような多くの人々が、義理と人情の板挟みになって心をひき裂かれて来た。だが実際のところ、シェークスピアにも『旧約聖書』にも、わが国で子が親を敬う「孝」という概念に相当する適切な言葉は見当たらない。しかしながら、わが武士道では、このような板挟みの場合、ためらうことなく忠義を選んだのである。母親もわが子に、主君のためにすべてを犠牲にするよう促した。武士の妻はウィンダム(英国王の家臣)の未亡人とその高名な夫にも劣らぬほど、決然と、忠義のために息子を差し出す覚悟が出来ていたのである。
武士道では、アアリストテレスや何人かの現代社会学者のように、個人より国家が先に存在しると考えた。つまり個人は国家を担うための構成員として生れたと見ている。だからこそ、個人は国家のため、あるいはその合法的権威のために生き、かつ死なねばならないと考えたのである。『クリトン』の読者は、ソクラテスが自分の逃走の問題について、アテネの法律を代弁して、自分自身と論争した議論を思い出すだろう。
ソクラテスは国家あるいは法律にこう言わせている。「おまえはわが下に生れ、養われ、かつ教育も受けたのに、おまえのお前の祖先も、私の子でも従者でもないと、あえて言うのか」と。これらの言葉は私たち日本人が聞いても、何ら異常は感じられない。しれは同じ事を武士道が昔から口にして来たことだからである。ただし、日本人の場合は法と国家が唯一の人格に相当した、という相違があるが、要するに忠義とは、このような政治理論から生まれた道徳なのである。
スペンサーの見解によれば、政治的服従、すなわち忠義は、過度的な機能を与えられたに過ぎないことになる。私もこの見解を知らないわけではない。おそらくそうだろう。一日の徳は、その一日だけで十分である。私たちは満ち足りない思いでそれを一日一日繰り返すだろう。ただし私たち日本人にとってその日というのは長い期間である。「さざれ石のいわおとなりて、こけのむすまで」というわが国の国歌の一節を信じているように。
これに関連して、私たちは、イギリス人のように民主的な国家でさえ、ブートミーが最近述べているように、「一人の人間とその子孫に対する個人的な忠誠の感情は、彼らの祖先であるゲルマン人がその首領に対して抱いたものであるが、それが多少なりとも伝わって、彼らの君主の血統に対する深い忠誠心となり、王室への異常な愛着となってあらわれている」ことを思い出す。スペンサーは予言した。政治的に服従することは個人的良心の命令する服従に取って代わられるだろう、と。彼の推論がいつか現実のものになるとしても、忠義とそれに伴う尊敬の本能は、果たして永久に消え失せてしまうのだろうか?
私たちはその忠誠心を、一人の君主から別の君主へ、そのどちらにも不誠実にならないように移した。その時、私たちはこの世の権力を握る統治者の臣下であることから、心の奥底に着座する王の下僕となるのである。
数年前、ひどく馬鹿げた論争がスペンサーの心得違いの信奉者たちによって始められ、日本の読書界を揺るがせたことがあった。ある者は皇位への不可分の忠義を熱心に求めるあまり、キリスト教徒がイエスに忠誠を誓っているという事実は、大逆の傾向があると非難した。彼らは修辞学者ソフィストの機知も持たずにソフィスト的詭弁を弄し、スコラ学徒の実証性もなしにスコラ的学説を並べたてた。彼らは「一方に親に親しんで他方を憎むことなく、二人の主人に仕える」ことが出来るのを知らなかったのだ。つまり「カエサルのものはカエサルへ。神のものは神へ」ということをである。
ソクラテスは彼の「鬼神デモン」に対してただの一点も譲歩することなく、同様の忠誠と冷静さをもって地上の王者、すなわち国家の命令に服したではないか。彼は生きては自分の良心に従い、死しては国家に自己を捧げたのである。国家がその人民の個々の良心に対して、命令するまでに強大となる日こそ悲しむべきである!
2020/09/13
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