~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
牡 丹 の 客 (二)
「そう思うてくれるか! じゃが、わが大事な嫡子に身分低き生母を持たせたそのつぐないに、いかにしてみそなたを早う世に出さねばと、そのためには財宝を惜しまなんだ。白河院の御所に奉仕を怠らず、宋船のもたらしし瑪瑙めのう翡翠ひすい綾錦あやにしきの数々をまいらせ、近臣の公卿たちにも贈物をたやさず、ひたすらわが子清盛のお引き立てを乞い願うた。その甲斐あって、そなた十二歳の元服には法皇と側近の公家たちのおはからいのいうて特に従五位下じゅうごいげ左兵衛佐さひょうのすけ(皇居武官)の異例の待遇を賜り、その春石清水八幡宮の祭りにあまたの貴族の公達きんだちと共に舞楽の舞人まいうどに召されし際は、どの公達よりも華やかに、舞衣装は宋よりの綾錦を用い、従者たちの装束もきらびやかに揃えて衆目を見はらせたのも、この父の心づくしであったが、そうとも知らぬ世間の口さがなさは『白河院の通われた祇園女御の許でその侍女にもお手をつけられたが、女御を憚られて備前守(忠盛)に賜ったよし。さればその嫡子とはとりもなおさず御落胤らくいん。今日の晴れの舞人に加えられしもそのゆえよ』としたり顔の噂はなんと笑止千万・・・」
「父上、いかに尊き皇室とは申せみかどのお気まぐれゆえの落胤と言わるるより、この清盛は武門の誉れ高き平氏の子として生れしを誇りといたしまする。とはいえ、いま父上がこの清盛の将来に為にしかるべき家門の娘を妻にとのお望みはゆえなきにあらずと肝に銘じました」
「よう申してくれた。いま地下に眠る父正盛公も孫のそなたの為にさぞ御安堵であろう」
こうして ── 清盛は継母のすすめる高階家のむすめを妻に迎えねばならなかった。
その当時の婚姻の風習はまだ平安古来の習慣が残り、結婚申込には恋情うぃ歌に託して女性の方へ贈るのが作法だった。
清盛は継母の房子から一日も早くその恋歌をしたためて、高階家の娘に届けるようにとたびたび催促されても、少しも恋情を覚えぬ相手に恋の歌は作れない。無理に詠めば嘘になるから、ついのびのびになってしまった。
父の忠盛が心配して「わしが代作してやるよりほかあるまい」と短冊に筆をとった。
清盛は学問の素養はあったが、歌道には冷淡だった。その点は父の忠盛と大ちがいだった。忠盛は「玉葉和歌集」にも選ばれたひとかどの歌人だった。彼が信任を得た白河法皇が、清盛の十二歳の石清水八幡の舞人をつとめた春の四ヶ月後の七月七日の日に崩御されると、哀傷の一首をささげた。
またもこむ 秋をまつべき 七夕の 別るるだにも いかが悲しき
この忠盛だから息子の恋歌の代作はいとたやすいことであった。その父の詠んでくれた歌を届けてやがて婚約成立。清盛はしぶしぶ女の許へ幾日か通って、そして六波羅の邸へ妻として迎えた。
その翌年、清盛の長子重盛が誕生した。まだ若い二十一歳の清盛より祖父の忠盛が初孫の男児を得て喜悦の歌を幾首も詠じた。
その重盛の母は、良人の清盛が「西を見ておれ」と命ずれば幾日でも西を向いているような従順な妻だったが、清盛にはなんの歯ごたえもない味も匂いもないものたりない妻だった。だが清盛は父や継母のためにもこの妻をしまつには扱わなかった。その点彼はか弱い女性には男子は優しくせねばならぬという信念を持っていた。三歳で別れた亡き母への思慕がかれのそうした精神形成に影響した。
清盛の妻は重盛が五歳の冬にかりそめの風邪と思えたのが病状変わって逝った。今で言えば急性肺炎であったろうか。
清盛は妻をねんごろに葬った。ついに心から愛し得なかった妻への憐れみゆえに、なおさらに供養を怠らなかった。彼はそういう男であった。
彼は身辺に仕える近習きんじゅうの少年侍たちにも心あたたかき若殿だった。冬の寒い夜は自分の厚い寝具の裾に入れて寝かせた。朝早く清盛は眼ざめても彼らがまだ眠っていると、そっと起き出てその眠りをさまたげなかった。こうした思いやりある若殿には六波羅邸館の家臣たちすべての信頼が寄せられた。
── 父の忠盛と継母の房子は、やがて清盛の再婚のことを考え、あちこちの名門の姫たちを物色していたが、清盛は再婚どころか結婚にはこりた気持だった。妻というものはなんと無味無臭のつまらんものかとの経験から、彼は再婚話には一切耳をかたむけず三年を過ごした。
2020/09/28
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