~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
牡 丹 の 客 (三)
六波羅庭園の一画に牡丹ぼたんを集めた牡丹園があった。その花の苗は数年前に忠盛が宋船に頼んで運ばせた中国原産のものだった。その国の百花の王と称する花を六波羅に咲かせてながめ、歌にも詠みたかったのであろう。
この中国渡来の花が日本の各地にひろまるようになってから、後世、足利時代末期に来朝した切支丹の神父イルマン・ファン・フェルナンデスはまだこの花を知らず、牡丹花を東洋の薔薇ばらと思い込み「日本人は祭礼の笠にも造化の薔薇をつける」と故国に通信した。それより四百十七年前の平氏勃興の頃のこの花は、大いに珍重されたはずだった。
それゆえに忠盛はわ邸の牡丹園を誇ってその花の盛りの頃は客を招いた。この艶麗な花だけに招待者もおのずと公卿の夫人やその子女が中心だった。年ごとに牡丹の客になりたい希望者がふえて、その年もあたらしく招く婦人客が二、三あった。
── その日は朝から六波羅の車宿くるまやどり(駐車場)は上流婦人用の糸毛の牛車ぎっしゃ(車体を色染めの撚糸で飾る)ひしめめくように集まり、牛飼うしかいわらべの声で賑わった。
牡丹園のほとりに、平氏の代表家紋「揚羽蝶」を描いた幔幕を引きまわしてから渡りの緋毛氈ひもうせんあまたを惜しげもなく敷きつめ、客の憩いと接待の座が設けてあった。そこには金蒔絵まきえの短冊箱と筆硯もあまた備えてあったのは、今日の花のながめを三十一みそひと文字もじに詠みたい人たちへの用意であった。
歌を詠むのは貴族の、こと女性の欠くべからざる日常のたしなみであった。その日の客人まろうどのほとんどが、牡丹の園を悠然と闊歩していた時、その前方にただ一人うら若い娘が、六波羅殿の自慢の牡丹園を今こそ独占出来たというふうに、のびのびと眺めて立つ姿が清盛の眼にひどく印象的だったのでその娘に近づいた。
牡丹の咲く月は当時の暦ですでに薄暑はくしょであるから、娘のいでたちも菱形模様の単衣ひとえぎぬを庭歩きに引きずらぬ程度に草履の足首までに裾をちめ、上に丸の撫子なでしこうちぎ、それをすかかして涼し気に紗の萌黄もえぎ染めの袿を更に重ねている。どれも目立たぬ質素なものながら、この日の為の新調らしい衣装が、その眉目にふさわしくいかにもきりりとした感じだった。
「あなたは和歌の仲間入りはなさらぬのか」
清盛はこの娘にふと好奇心をさそわれて言葉をかけずにはいられなかった。
「母はあの幕屋に入って居りますが、私は御遠慮いたしました。歌の才はございませんから」
隠しもせず、さりとて蓮葉でもなく真面目な態度である。
「ホウ、それはわしも同じだ。どうでも三十一文字ならべねばならぬと思うと、花を見ても心楽しまぬのう」
と清盛は声をあげて気持ちよげに笑った。この娘と向かい合って言葉を交すと、きびきびした反応があって打てば響く快感があった。上流の娘たちは清盛が声をかけると、みなわけもなくはじらって扇でむやみと顔を隠すのが、いつも清盛は気に入らなかったのだ。
「六波羅の牡丹はみごとであろう。この花は男より女の好む花じゃな」
「・・・・」
答はなかった。
「あなたは好まぬのかな」
「私には似合いませぬゆえ、好むともいたしかたございませぬ」
「ホウ、それならどのような花がお好きか」
よもぎこそ私に似合うと思われます」
娘はほのかにんだ。
「なに蓬とな、あの野の草か」
「はい、野の草とは申せ益なき雑草とは異なりまする。夏秋には愛らしき花を開き、葉には香気をも含み、草餅にも灸術のもぐさ・・・にもなりまする」
さわやかによどみなく娘は説明する。
「「うーむ、いかにも! これは蓬姫か」
清盛はまったくこの娘にかぶとを脱いだ気持で心地よげに娘を眺めた。
── その時にはもう幕屋の歌会も終わったらしく、客の女性群はさっきから色とりどりの豪華な袿をひるがえして幕屋の外へ現れていた。それに気づいたこの蓬姫は清盛に一礼して幕屋の外に現れた一群の中の一人へ「お母さま」と声かけて小走りに近寄った。
娘に母と呼ばれた女性は、それにしては若く小柄の優しい顔立ちに驚きの表情をうかべた。
「そなた、いま六波羅の若殿に何を申し上げておじゃったのか」
「えっ、ではあのお気軽なお方がこのお館の若殿!」
「それも知らいで、まあなんとしよう!」
母はここ六波羅の嫡男清盛とも知らず、どこぞの公達きんだちの一人とでも思うて心やすく語っていたのかと冷汗をおぼえて、清盛の方を見るともうその姿はそこになかった。そしていましがたまで牡丹園の上にあかあかと照った首夏しゅかの陽射しもややうすれていた。
はるかに遠い彼方かなた車宿くるまやどりの方から潮騒しおさいのようにひびくのは、次から次にこの庭園を辞去する高貴の夫人たちの糸毛車の牛飼童や供の雑色ぞうしきたちを、六波羅邸の家従たちが呼び出す声々だった。
2020/09/28
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