~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
仙 洞 御 所 の 庭 (一)
良人が兵庫港工事完成で御機嫌で帰ると、それを迎えて西八条別邸開きが一族を招いて行われた。
集まる客は、まず対屋の姫たちの兄弟四人重盛、宗盛、知盛、重衡。それに清盛の異母弟一門とその北の方たちだった。
妻子同伴の重盛の妻は名門の権中納言藤原成親の妹である。長男は彼が結婚前に内裏の女房との間に設けた維盛である。継母時子が重衡を生んだ翌年の誕生でまだ七歳の美童だった。その一歳下の二男の資盛もまた脇腹の子であった。父清盛に比べて聖人君主のような感じを与える重盛も、女色の点ではこうした一面があった。
母の異母妹を妻とするまだ十代同士の宗盛夫妻も仲睦まじい姿を見せた。時子の弟時忠は出雲国へ遠流中で、あの陽気で賑やかな彼はその日の客にはなれなかったが、遠流といっても義兄清盛の勢力のおかげで出雲国の目代もくだいの邸に預けられて遠流の客として暮し、都の我が家にも通信を交わしているから、時子も誰も安心している。
清盛は娘たち平家の女系の棲居落成の祝いに、漏刻を父の贈物とした。それはかつて内裏再築に献上した漏刻より小型なものではあったが、西八条の別邸の日々の時刻を示す重要な実用品だった。それは娘たちよりも時子を喜ばせた。それによって娘たちの起き臥し、日課を規則正しくさせ、貴重な時の観念を与え得ると、この教育ママは考えた。
この日招かれた一族からも、それぞれ祝いの品を贈られたが、そのなかに生きものがあったのは、ひときわ目立った。
それは二匹のちんだった。これはかつて(824年)新羅しらぎ(朝鮮半島の古国名)から時の朝廷に貢物とした被毛と垂れ耳、短く丸い鼻の左右に離れた大きな丸目の愛らしさ、動作が優美で貴族女性たちの室内愛玩犬だった。
この二匹の狆の贈主は、六波羅の総門の脇に邸を構えるゆえに門脇殿と呼ばれる教盛だった。
「東西の対屋の娘たちへと思いついて手に入れた狆よ。どうじゃお気に召したかな」
と満足そうだったのは、この犬を見るなり娘たちが歓声をあげて、
「まあ、可愛ゆい!」
と異口同音に喜んで狆のまわりに集まったからである。
娘たちにとって当日の贈物は、父からの日常実用品の漏刻はともかくとして、ほかの一族からのぜいをきわめる装飾品のたぐいは珍しくもなかったが、この愛らしい動物の贈物がいちばん人気を集めたのだった。
贈主の教盛は生まれながらの武人らしく単純素朴だが、その日から姪たちには「狆を下さった叔父さま」として記憶された。
客の宴席は寝殿の広間で開かれ、蒔絵の高坏たかつき(一本足の食膳)と酒が出て、あとは新築の別邸を祝うて、一族の大人たちは笛、篳篥ひちりきしょう琵琶びわきん(七弦)そう(十三絃)和琴わごん(六絃)など、めいめい得意の楽器を合奏した。
姫たちも十三絃は名手夕霧に習ってはいるが、その仲間入りはまだ早かった。彼女たちは宗盛たち三兄弟と維盛をを案内して庭に遊びに出た。
寝殿前は白砂敷の庭、その向こうの池の中島にり橋がかけられ、途中の東の泉殿いずみどのと西の釣殿つりどのへは東西の対屋の廊の先端が通じている。これは六波羅にはなかった庭のおもむきなので、知盛や重盛の少年はよろこんで廻廊の下に池水が波打つ泉殿や釣殿をはしゃぎまわる。
やがて、その日の客が帰る時刻に庭を引き上げて彼等は寝殿に戻ったが、宗盛は母の時子に庭の美しさをほめて、
「あの広い池に竜頭鷁首りゅうとうげきすの舟を浮かべて楽を奏でてみたいと思います」
と言うと、母は不機嫌になっていましめた。
「そのような大宮人の真似事は、武人のそなたたちには無用のこと」
舟首に竜の頭を彫刻した一隻と鷁の首の彫刻の一隻を一対にして、池泉に浮かべて管弦を奏すうのが貴族の遊びではあったが、わが息子たちにその猿真似は許せなかった。あくまで武士団平氏の子息として雄々しい武人生活に置きたかった。けっして公卿化はしてはならぬ。公卿の公達きんだちのように色白く化粧して眉を引き、やわらかい言葉を使い恋の歌をつくる遊情な習慣に染まず、あくまで凛々しい若武者であってほしかった。
2020/10/16

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