~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
新 珠 (一)
西八条邸の新築祝いに叔父の教盛から贈られた二匹のちんは、対屋の姫たちの人気者になった。
狆は東西の対屋に一匹ずつ配られた。東の対屋のは黒のぶちが少なく、ほとんど全身白毛でふさふさと包まれているので雪丸と名づけられた。西のは頭に笠をかぶったように毛が覆うかぶさっているので笠丸だった。
東の対屋の三人の姫、よし子、盛子、徳子のうちで、いちばん雪丸を愛して、いっときも離さず膝に置いたり抱いたりするのが次女の盛子だった。盛子の行くところ必ず雪丸があとを追った。
夜も盛子の臥床にうずくまって眠るのだった。
西の対屋では寛子は動物が嫌いなのか、笠丸に興味がなかった。一つ下の五歳の典子だけが笠丸を相手にした。
その翌年の春めく頃、母の時子は今までのように東西の対屋の姫たちの読み書きや筝の稽古の進み方を見に姿を現さなかった。
「北の方はたいそうおいそがしいごようす」
と乳母たちは言いあった。
── やがて、そのおいそがしい原因が姫たちにわかった。
ある日、彼女たち五人を阿紗伎が呼びに来て、一同を居室の北の対屋に集めた。その姫たちのうしろに雪丸と笠丸二匹もお供した。
「お揃いになられました」
と阿紗伎が告げると、時子は奥から現われた。
姫たちは久しぶりで見る母の顔が緊張してる感じを受けた。末の典子にさえそう思えたから、もう十三歳の昌子は何か特別のお話があると察した。
姫たちはみなしいん・・・としていた。
「あなた方はいずれも、おいおいによき縁を得て嫁ぐ身ですよ。そのさきがけが盛子になりました。その支度で姫たちの顔も見ぬほどいそがしい母でした」
その時いっせいに盛子の顔をほかの姫たちが見詰めて息を詰めているかのようだった。
肝心の盛子はまだ九歳で、嫁ぐという大問題がぴんとひびかぬが、わが名を言われて驚いている。彼女はペットの雪丸を膝に抱いている。
その盛子よりも、はるかに衝動を受けたのは長女の昌子だった。彼女は嫁ぐというのは、よその家の北の方になるのだと知っている。
母時子の言葉はその昌子に向けられた。
「昌子は六歳の折にさる方との縁談を父上がお約束なされたが、先方にわざわい生じて沙汰止みとなったを、幼きままに知らせずにいきました。その事もあったゆえ、念には念を入れて、輿入れを早まって定めぬようにもう二、三年は稽古事に身を入れさせて、そなたの好む絵画も心ゆくまで習わせたいと思います。それゆえに盛子を先に六条殿摂政基実公の北の方にと定めたのです。まだこの幼さゆえ、北の方とは名のみ、嫁いだのちも読み書きも何もかも六条家で習い覚えさせて戴くことになりますから、さながらあちらの姫に貰われてゆくようなものよな」
と、母は微笑んで姫たちへの話を結んだ。
そのあと、阿紗伎が朱塗りの四脚の台盤(食卓)を運んだ。その上の幾つかの銀の皿には唐菓子の桂心その他、それに水菓子みずがし(くだもの)も干なつめなど幾種かの幾種かが盛ってある。桂心も干棗も、姫たちの好物で、干棗は熟したのを皮をむき、蒸して乾かし、甘かずらを幾度も塗った保存用のもので、大盤所の手造りだった。
対屋の姫たちは、元旦の祝膳いわいのぜんで一家揃う以外は、日に二度(当時は二食)の食膳も各自の居室に別々に運ばれて乳母の給仕で食べるので、姉妹共に賑やかに食事をする習慣がないのは貴族の家庭のならわしだった。それが今日この点心(唐語のおやつ)に皆が揃ったのは、いわば盛子の送別会に集めた母心であった。
── それから間もなく四月に入る。その上旬の日が盛子の婚礼だった。
四月は旧暦の五月の季節、花が散ってみずみずしい若葉の覆う西八条の館に、その日六条基実邸から消息使い来た。それは薄様うすよう(あけぼの染)の紙に香を焚きしめ、恋歌をしたためた文を若かえでの枝に吊るしたものを届ける使者だった。
盛子からの返歌は日頃の歌道の師世尊寺伊行が添削役に控えている。
夕刻には花嫁の身支度のために、乳母と共に盛子は今日を名残の東の対屋を立ち出て寝殿に向かう。そのあとを雪丸が裳にまつわりついて離れぬ。今宵の結婚式場まで狆がまかり出て、はては、寝所の裾に進入しては困ると乳母は当惑して、雪丸を東対屋の塗籠ぬりごめ(家土蔵)に監禁した。
── 夜に入り、婿君の基実が衣冠装束で牛車、近臣を伴って、前駆さきがけけのささげる松明たいまつに先導されて新婦の邸に着くと、門から庭園に至るところに篝火かがりびがあかあかと燃えている。鉄製籠に炎をあげる火影は、泉殿あたりの池辺の水に映えてうつくしい。
── 寝殿の帳台(四隅にとばりを垂れた座敷)前で結婚の義があげられ、その夜二十二歳ですでに一子の父の基実と九歳のまだ月のものも見ぬ少女の盛子は、夫婦の契りに供えられる三日夜餅みかよのもちを三つずつ口にしてから、帳台のなかの寝所に入った。今宵の幼き花嫁は今まで寝る時も、乳母が付き添わねば眠らぬならわしだったから、帳台のなかにも乳母は入らねばならなかったが、やがて女体のととのうまでは名ばかりの新妻であることは、良人の基実も承知の上で、一日も早く今をときめく平家の姫との結婚を父の忠通から急がせられたのである。
── その夜が明け、ゆうべ一夜中塗籠の中で哀し気に鼻を鳴らしていた雪丸を憐れんだ昌子や徳子が侍女たちに戸を開けさせると、内部に納めてあった冬の火桶が引っくり返されて、灰は散り、雪丸の白毛も灰まぶれで、しかもどの灰の中に尿いばりをしたたかに洩らしていた。
「これはまあ、あられもない狼藉ろうぜき
と、侍女たちは口や鼻を覆った。
対屋付の雑役夫の雑色ぞうしきがその灰だらけの狆を洗い浄めると、そのあと紅白の綱で彼は対屋から庭に出る簀子すのこの勾欄に結びつけられた。
2020/10/18
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