~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
若 き 非 望 (一)
裕子が西八条西の対屋で起き臥しして二日目に汐戸は喜んで北の方に報告した。
「御安堵遊ばしませ。佑子さまはあのお年齢としでまことにお心ばえすぐれた方でございます。お身のまわりのこと、お召替えその他一切なにごとも人手を借りずにご自分でなされますので、わたくしは手もちぶさたで困るほどでございます」
「それは尼寺でのおしつけであったろうの」
わが手許で育った娘たちは、何から何まで人手をわずらわすようにしつけけられている。身のまわりを自分ですることは当時の貴族の作法ではなかった。
「毎朝、観音像のお厨子の前で普門品ふもんぽんせられます。御食膳にお向かいの折は必ず合掌なされて、み仏へ糧をたまわる御例を遊ばされます。典子さまがそれをちらとお眼にとめられてから、ご自分も真似を遊ばされます」
はたして時子の予想の如く、末っ児の甘えん坊は早くも佑子になついてそのをするほど傾倒してゆくらしい。そては悪い感化ではない、典子の躾にもなると喜ぶ。
── 盛子の婚礼の前後の西八条邸の多忙と混雑のために、姫たちの学習の日課はいっとき休講となったが、その輿入れもすんで落ち着くと、読み書きの師の世尊寺伊之これゆきも、その妻夕霧の筝の教授も近く開始することになった。
姫たちはその年令によって上級と幼年の二組に分かれていた。東の対屋は今まで上級だった。盛子と同年の佑子は学習の時間には東の対屋の教室用の広間に行くことになった。
この邸宅に引き取られて西の対屋では起き臥ししたが、東の対屋に入るのは初めての佑子を乳母の汐戸が先導した。
寝殿を中央にして左右にある対屋は渡殿わたどの(渡り廊下)を渡って寝殿表の勾欄めぐる廻廊か、裏の細殿ほそどの(廊下)を経て通じるのであった。
汐戸にみちびかれて、佑子が東の対屋の遣戸やりど(出入口)のなかに一歩踏み入った時、一匹の白毛のちんがさっと駆け寄り、嬉し気に佑子のうちぎの袖にじゃれついて離れぬ。
「これ、雪丸あちらへ行きゃれ、なんと不作法な、さては盛姫さまとまちがえてか」
汐戸が慌てて追い払おうとすると、佑子はじゃれる狆をいといもせず、優しく両手で抱き上げると、雪丸はかつての盛子に抱かれたように鼻を鳴らして甘える。
盛子の婚礼の日からしばらくは簀子すのこの縁に紅白の綱で結び付けられてあった雪丸は、盛子が婚家に移ってから開放されて身舎(屋内)に今までのように放ち飼いとなったが、盛子の姿が見えぬのにがっかり、しょんぼりといつもどこかの片隅にあわれにうずくまっていたのだった。
その雪丸を胸に抱いた佑子が現れた時、学習用の広間に伊行を迎えて待ち受けて居た昌子と徳子は、嫁ぎ去った盛子がまた忽然こつぜんと現れたかと一瞬 ── 驚かされた。
彼女たちの師の伊行は先日の盛子の露顕ところあらわしの宴にも招かれたので、佑子をすでに見知っていた。
盛子に相似のおもざしからも、まがうかたなき清盛公の落胤らくいんとは察した。一卵性双生児とまでは知らぬとしても・・・。
だが、今日から彼女に授ける学習については、この少女がどの程度の読み書きを身に付けているかを知っておかねばならなかった。
「お手習はどこまでなされました」
とまず問うと、
「かな文字をすませましてから『千字文せんじもん』をなかばまででございます」
「うーむ」と伊行は眼を見張った。
“天地玄黄”に始まり一字も重複せぬ文字をつらねるので「千字分」と呼ばれる。それをすでになかばとは、九歳というが、その点は十三の昌子をしのぐ。もっとも昌子は文字よりも絵の稽古に打ち込んでいる。
佑子の漢字の教養は、庵主の老尼がやがて写経させるためにも、との早教育であった。毎日経文も読ませられていた佑子だった。
「では、漢文の書も読まれますか」
「『白氏文集はくじもんじゅう』を少し教えられました」
白居易(白楽天)の詩文集の復刻ふっこく版は平安後期にはひろまってはいたが、この一少女に荷が勝ちすぎる。昌子と徳子の上級組もまだ「白氏文集」など手にしたことがない。
「和学もまた読まれるのでしょうか」
「はい、『竹取物語』をはじめに、それから『枕草子』の短き段と『古今和歌集』も『貫之つらゆき集』も暗誦いたしました」
ここまでくると、さすがの伊行もかぶとを脱いだ。
佑子の育てられた尼寺の庵主は、元は鳥羽帝の後宮に仕えた学識ある内侍ないしが恋に破れて世を棄てての出家とて、経文の暗誦と共に佑子にあまりに性急せいきゅうな詰込み教育をほどこしたのである。
2020/10/20
Next