~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
若 き 非 望 (二)
その日、東西の対屋の姫たちへの享受を終わった伊行はそのまま帰らず、北の方に会うため取次を阿紗伎に頼むと、娘たちの教養係の彼は直ちに北の対屋に導かれる。
「今日から佑子もお教えを仰いで居りますが、いままではよそで育てられた身とて、昌子たち姉妹とは稽古事もちがいましょうが、なにとぞよろしく」
時子は不幸な生れの佑子が尼寺のき掃除と読経に追いまくられて、学習のいとまがなかったかと想像して伊行の顔を見るなりこの挨拶を述べた。
「北の方のそおご案じはごもっともながら、あの姫の今までことどもは、お年齢にくらべて人並み以上の高いものにて、ほとほと驚嘆いたしました」
と、佑子の学力を説明した。
「おうそは!」
吉田の里の小さい尼寺では、拭き掃除や経を読むことだけではなかった ── と時子は知って、佑子が年齢よりもさとく大人びているのもことわりと、わが不明を恥じる。
「ついては漢文をすでに学ばれるからには、その学習は良き師の指導をお受けになるのをおいしめいたしたく」
伊行は書道、国文学にはすぐれたが、漢文の師としてはほかに適任者を推薦したかった。
彼は平家の姫たちの教養係として、昌子に絵画の才能を認めると、その師に巨勢こせ派の画家をしたように、姫たちのそれぞれの才能をのばすことに興味と期待を持つ。その点すぐれた教育者の資質を持っていたのは平家の姫たちにとって幸福であった。
時子もそれを知って、この場合も彼の意見に従うつもりだった。
娘たちが美しい容姿であることも願うが、それが万が一にも白痴美であることを何よりも怖れた。それがためにその教養に熱心だったのである。
当時の漢字はいわば外国語を学びその原書を読み書きする語学を学ぶ事だった。いまはからずも佑子にその才能が芽生えていると聞かされると、平家の娘の一人には漢学を身につけさせてもと乗り気になる。
漢学は当時の公卿はみな学んだが、なかでも若き知識人としてひときわ有名なのは藤原兼実、日記も漢文でしるすというその人は、盛子が嫁いだ六条基実の二番目の弟に当たる。てれども権大納言で近く内大臣に任ぜられるとう人に、九歳のわが娘に初歩の漢学を教えに来てくれとは頼めるはずはなかった。
「なにしろ女の子を相手にお願いするとなれば、そのおつもりで気軽くいらっして戴ける方でないと・・・さりとて、氏素性もあやしげな人を招くわけにもまいりませぬ」
と時子は言う。
「その点では申し分のない師がございます。それはかつての後三条帝、白河帝、堀河帝三代の侍読を勤めし漢学者、高才明敏、博識の朝臣大江匡房まさふさの曾孫広元でございます。幼にして神童のほまれ高く、まだ十六歳の学生がくしょうながら、その学識はまさにおそるべきものと思われます。佑姫の漢学のお相手にはこの大江家の子息こそ適任とかんがえられまする」
「十六歳とはあまりにお若い」
時子は伊行が推薦する漢学の家庭教師は白髪の老学者でもあろうと早合点していただけに意外だった。
「当世の公卿の公達のごとく歌舞管弦の遊びにふけるでもなく、ただいちずに学問に打ち込み、その行状は正しくあっぱれなものでございます」
伊行は広元を褒めあげた。
「そのような学問一筋の方が、小さな娘の学習相手に時をさいて足を運ばれましょうか」
「ともあれ、大江家とは知り合う私より伝えてみましょう」
伊行はそう言って立ち帰った。
── 北の対屋で時子と世尊寺伊行がこうした用件を語り合っている間に、東西の対屋の娘たち姉妹の間では狆の騒動が起きていた。
それは ── 東の対屋の教室から佑子が帰る時に、雪丸が彼女につきまとって離れず西の対屋に入り込んで動かぬ。西の対屋に飼われている笠丸は、闖入ちんにゅう者の雪丸に敵意を抱いて吠え立てる。
侍女たちが雪丸を無理に引き立てて返しに行ってホッとすると間もなく、いつの間にかひょっこりと雪丸は西へ帰ってしまう。
「では笠丸をあちらに差し上げて、とりかえっこしましょう。典子ははじめから白妙しろたえの雪丸が上品でこのましかったの」
末っ児らしくわがままな典子の言葉によって笠丸を連れて乳母の安良井がそのむねを伝えると、あちらの乳母たち、ことに徳子の乳母小檜垣こひがきが承知せぬ。
「今日に日までこちらで飼い馴らしたものをいまさら取り替えよとは」
小檜垣は北の方お腹の姫徳子付きを内心誇る女だったから、よそから入られた佑子を雪丸が慕うために、笠丸を押しつけられるのがいまいましいのだった。
それははからずも乳母争いとなったのを聞いた昌子は、年長の姫だけにおだやかに裁断した。
「それでは、いっそ笠丸もあちらで一緒にお飼いになられるとおよろしくはないの、徳子さまいかがでしょうか」
妹の徳子にも、いたって丁重な昌子は、すでにわが身が長女ながら時子の実子でないことを、乳母同士の不注意なひそふいそ話から知っていたのだった。
「どちらでもわたくしはよろしいわ」
徳子はものごとすべて、おうようで、狆にもなんの執着もない。
だが乳母の小檜垣は引っ込まぬ。
「さりながらこの狆は御叔父上の門脇殿(教盛)より御姉妹への御贈物、こちらはいれぬゆえ西の対へみな差し上げるとあっては、この儀いかがでございましょう」
「それなら、雪丸はあちらに、笠丸をここにとりかえればよい」
まことにおっとりと素直な徳子の鶴の一声でことは納まった。
2020/10/20
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