~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
憧 れ の 洛 中 (一)
対屋の姫たちの筝の稽古もふったび始められた。筝の師の夕霧も盛子の露顕ところならわしの宴で忽然こつぜんと出現した佑子を見知ってはいる。良人の伊行からその学力についても聞いていた。
“村雲”の銘の筝を西八条に持って来られたという噂からも、いままでの稽古もなみなみならぬものとは想像はしたが、こころみに一曲を頼むと、流儀は夕霧と少し違うがまことに抒情的な音色である。夕霧は誉める言葉も忘れて恍惚うっとりさせられた。
生れると六波羅で育ち、そして西八条の対屋に移られた姫たちと違って、いま新しく平家の姫となられたこの方は、他の姉妹の持たぬものを身につけて、よそから入られたという感じを強く夕霧は受けた。
夕霧からこの報告を受けた時子は、佑子が寺の縁を拭き掃除したことも何もかも、みな彼女の血となり肉となって、その姉妹たちが真綿に包まれてさすられるような生活の成長とは大きな差があるのを身に沁みて知らされると、佑子こそ姉妹のよい刺戟となって姫たちの心の発育をうながしてほしいとひそかに願う。
その母の願う佑子からの刺戟を強烈に受けたのは、姉妹の末の幼い六歳の典子だった。彼女は今までどの姉からも受けたことのない魅力をこの新しく出現した姉に覚えたのだった。しかもその姉とは同じ対屋で暮らす。今までも同じ対屋に一つちがいの姉の寛子と居ても居間は別で、食膳も別に運ばれ、互いに乳母や侍女が付いているので、姉妹と言っても接触が淡いものだった。
佑子が来てもその生活様式は同じ事だったが、典子は絶えず佑子の居間に入り込んで話しかけた。
「ここへおいでまで、どこにいらっしたの?」
「お寺で育てられました」
佑子はさりげなくsらりと答える。
「まあ、どうして?」
乳母の汐戸が佑子に代わって答える。
「おひいさまのおうちのおひとかたは、御仏にささげて御出家遊ばすようにとの思召しゆえで・・・さりとてそれはあまりにもあわれと・・・北の方はやはりお手許に引き取りたいと仰せられて西八条にお迎え為されたのでございます」
「ああ、そうなの、よかったこと」
典子はこども心に納得したが、汐戸が説明するわが身の上の説明を本人の佑子自身ははたして納得したかどうかはわからない。彼女は乳母の説明に任せて眼を伏せ、うつむいたままだった。
その佑子の姿を見ると典子はこの新しき姉がまことに神秘な人に思える。乳母たちから童話のように聞かされた「竹取物語」のかぐや姫のような気がする。竹の中から生まれてやがて月にのぼってゆく美しい姫のように・・・。
だが、この姉はお寺に育てられて、天上の月ではないが西八条のやかたの対屋に入ったのだと思う。
「いらっしたお寺はここより遠いところ?」
典子の質問は尽きない。
「東山のふもと吉田の里はさびしいほとり、ときには庵主さまに連れられて京の町中の賑わいを眺めて歩きました」
「まあ、町中の賑わいを眺めて! わたしはまだ歩いたことがない」
典子は生れてから六波羅の広い庭を眺めるのみ、西八条へ移る時は牛車で、簾越すだれごしにちらと見た都の道だった。
「安良井と汐戸が今日佑さまとわたしを連れて町中の賑わいを見せて!」
末っ児の甘ったれの、そして怖ろしいもの知らずのこの幼女は、まだ見ぬ洛中へ憧れる。この広大な館の外へ歩いて出てみたい好奇心にひたむきになってしまう。
佑子はハッと顔色を変えた。自分の不用意な言葉が典子をそそのかしたと知って。
汐戸も安良井も顔見合わして吐息が出る。
「北の方のお許しがなくては、そのようなめっそうもないことをどうして計らえましょうぞ」
汐戸が言うと、安良井もつづいて、
「あいにくと、今日北の方はお里方へお出ましてお留守、御意ぎょいを伺うことも叶いませぬ」
母の時子の実家の父時信は老衰の床について久しい。弟時忠は出雲へ配流され、妹滋子は上皇御所の後宮からは軽々しく出られぬ。宗盛の妻である末娘の郁子がたびたび、時子たまには見舞わねばならぬ。
「お母さまが今日おわさぬからこそ、わたしたち、町の中に出て歩けましょう」
典子には母の留守こそ幸いだった。母が居たら断じて許されるはずなしと、この幼女の判断はたしかである。
「これはまあなんとしたものやら」
汐戸も途方に暮れる。
「典さまのたってのお頼み、かなえてあげられませぬか」
ふいと佑子が思いあまったように、はっきりと言い切った時、二人の乳母たちどきり・・・とさせたれた。
「そう仰せられても、北の方のお留守にさような振舞いをこの乳母たちがいたしては、ごのようなおとがめをこうむりますやら、そら怖ろしい次第・・・」
「そのおとがめは、この佑子がわが身にお受けして、吉田のお寺に追われて帰りましょう」
この佑子のしっかりした言葉に、典子はいきなり彼女の胸に縋りついて泣き声をあげる。
「お寺に帰ってはいや、いや! もう典子町を見に行くとは言わない」
2020/10/21
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