~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
憧 れ の 洛 中 (二)
それから ── まもなくお里方から北の方を待ち受けていた汐戸が北の対屋のお居間で、留守中の佑子、典子の一件を委しく伝えた。それは年少の姫たちの戯れ事として軽く見過ごせぬ、乳母の責任としてはぜひお耳に入れねばならないと思うからだった。
「なんと、佑子がとがめを負うて寺へ帰ると申せば、典子は泣いて帰ってはいやと取すがったとやら、あの典子にはもう佑子はかけがえのない手頼たのもしき姉となったのであろう!」
母の時子はほとほと感じ入った。
佑子がそれほど幼い妹をきつけるのも、彼女がほかの姉妹の生活とは、まるで違った境地に育って、平家の娘たちの持たぬ根性をしかと身につけたゆえと時子は思うと、典子が京の庶民の町通りを歩いてみたいという望みを叶えてやるのも一つの教育とうなずく。
「典子の願うように佑子ともども町中をしばらく歩かせに、近いうちにそなたたち、連れて参るがよい」
思いもかけぬ北の方のお許しが出て、汐戸は驚かされて言葉もない。その表情を見てとって時子は微笑んで、
「さりながら汐戸、姫たちには心して必ずこの母が許したと洩らしてはならぬぞえ。佑子、典子の二人を許せば、やがて東の対のみたりの姫も望めば許さねばなるまい。いちど町中を歩けばまた行ってもみたかろう。さればよ、母はあくまで許さぬことにして、そなたが危ない橋を渡る怖れを持って、一生一度の決心で姫の願望に添うと申すがよい」
「しかと心得ました」
汐戸はいまさらに北の方の綿密な思慮に頭を深くさげてしまう。
「さりとて、ぎょうさんな供揃いで西八条の姫のお通りじゃと、こちらが見世物にならぬよう、そこはよう心得なばならぬ。さる遠国の武家の娘姉妹に乳母が付き添うて、京見物にのぼっての神もうでと見える旅姿をよそおうてな。そなたたちのみでは心細かろうゆえ、汐戸そちの連れ合いの美濃六どのに護衛に付いて貰うがよい」
「あのような弓矢のすべも知らぬ者が、なんの頼りになりましょうか」
汐戸は心細がる。
「案ずることはない。いずれ別に弥五左が配慮いたそう」
汐戸はこれで安心した。
「まことにおみごとの御結構けっこう(計略)にて、姫がたいかばかりお喜びでございましょう。さっそくそのようにお支度を手抜かりなく仕ります」
汐戸はいそいそと座をさがったものの、まことに責任重大な難事業を負うた感じで緊張した。
北の方のお指図通り、絶対秘密で事を行うことがまず肝心、うっかり東の対の乳母たちが嗅ぎつければ、乳母同士の競争心から東の対の姫がたにも京の市中のそぞろ歩きを望んだら大騒ぎとなり、北の方のこのたびの黙認もお取り消となるは必定。その点も気がもめるが、幸い典子の乳母安良井はわが娘、護衛役の男は良人の美濃六であるからには極秘に事を行うに安心でもあった。
── 通称美濃六は正しくは美濃六平太である。彼の亡父は美濃国の出身、先代忠盛の時から六波羅館の庶務係の家従となり、その息子の六平太は清盛の近習をながらく勤めて、現在は非常勤の“しと筒”奉持役ほうじやくだった。
清盛が朝臣ちょうしんとして位階が昇るにつけ、朝廷の儀式に召されて参内する日が多い。その時は男子の礼服らいふく束帯姿で殿上に長い時間を過ごさねばならぬ。その間に尿意をもよおしても、威厳を示すために誇大化されて強張こわばったこわ装束の複雑きわまる服飾では不可能だった。
そのために、“しと筒”役の下臣が、役目がら特に扈従こしょうを許されて主家の家紋を付けた染直衣姿で殿内の白砂の庭に控える。美濃六平太が、清盛のその係だった。
清盛が彼の役を必要とする時は殿内の御直蘆じきろ(装束召替所)に入り、そこに詰める大舎人おおとねり(宮中雑事役)に六平太を呼ばせると、彼はさっそく現れてうやうやしく捧げ持つ金襴の袋から銀製の長細い筒を取り出して、ほうの裾下の表袴うえのはかまの中に巧みにさし入れて、あやまちもなく清盛の放尿を受ける・・・ゆえにその筒は一名“装束筒”とも呼ばれた。
こうして主の尿の始末に仕える役ながら、それは決して下賤な役とはされなかった。むしろ主の体内に接触する微妙な役を勤めるのは、家臣として信用ある忠実な誠意を認められた者としての証拠であり、清盛と時子からも親近感を持たれていた。
それゆえに時子は汐戸の前でも「そちの連れ合いの美濃六どの」と呼び捨てにもせぬ。
汐戸のその良人は、いつも六波羅に詰めていたが、目下は清盛が兵庫築港のため福原にまた滞在中なので、女房汐戸と娘の安良井が姫君乳母として勤める西八条の館に来て、殿舎裏の雑舎に寝泊まりしている。寝殿造りの裏門傍の左右にそうした下屋ともいうものが二棟あった。建物内部は幾間にも仕切られて多人数棲める。
妻も娘も対屋の姫君の傍を夜も離れぬ乳母の職務とて美濃六はほとんど男やもめの生活だが、幸い孫の小六が祖父と共に起き臥ししている。その小六の母は安良井である。
2020/10/22
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