~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
変 幻 (一)
京の町の庶民の生活を眺めて歩くその願望を、平家の姫二人がなしとげる日がいよいよ来たのは、極秘のうちに手落ちなく準備が整ったからである。
薄暑の陽のさす、よく晴れた日、朝餉あさげがすむとまもなく、ひそかに佑子と典子は安良井一人の供で、侍女たちに言い含めてちんの雪丸の気づかぬうちに、西の対から長い渡殿で通じる庭園の池畔の釣殿に向かった。そこへの渡殿は透廊すいろうという、両側を壁で隠さず透かして見える廊下なので、二人の姫が釣殿は渡りゆく姿は遠くからも見える。
東の対の徳子付きの乳母小檜垣は、ちょうどその時に東の簀子(縁先)から、はるか向こうの西の渡殿を釣殿に向かって歩きゆく佑子たちの姿を眼にとめた。
釣殿は西の対の渡殿の先にあり、夏の納涼に使う建物で、内部の床床をはずすと池中の魚が見え、そこから釣糸を垂らすことも出来る。釣をせずとも魚の泳ぐのを見て愉しむために、姫たちが行かれるのに不思議はないから、小檜垣がその時べつに怪しみもしなかったのは東の渡殿の先にも泉殿がああり、ここへ夏めく季節から、昌子、徳子たちも行くならいだったからである。
気の勝った小檜垣も、さすがにそれから先のことを推理する神通力は持ってなかった。
やがて裕子、典子が釣殿に入ると、そこに汐戸がすでに待ち受けていた。池中の建物とはいえ、それは簡単な四阿あずまやなどとちがって、やはり堂々とした寝殿建築の一部で一棟の殿舎であり、建物をめぐる水辺の廻廊に立つ以外、奥へ入るともう外からはもぞけぬ。
その奥で、汐戸は用意してあった、地方遠国の武家の娘たちの旅姿にふさわしい衣装を取り出して、二人の姫に変装のお着付けをした。
姫たちの平常着は緋の長袴を省略した切袴にうちぎ姿であるが、それを脱いでの変装は、裾短く着た小袖の上に萌黄の袿を小袖の裾より短目に重ね、素足に太緒の草履ばき、そして胸に紅い紐の懸帯、そのまんなかに錦の守袋まもりぶくろをさげる、これこそ社寺詣の旅のしるしである。そして少女用の市女笠いちめがさを髪にする姿に姫二人を仕立てると、汐戸も安良井もそのお供にふさわしい姿に手早く変わって姫をみちびいて、釣殿の裏の廻廊に出る。そこは受けに浮かぶ小舟の出入り口で、池辺に立たねば見えぬ場所だった。
舟を廻廊の水ぎわの階段下に付けて待つのは汐戸の良人美濃六で、頂頭掛ちょうずかけ烏帽子に括袴くくりばかまの下僕姿に変わって棹を水にさしていた。姫たち一行が乗り込むと、小舟は池の左手の端の岸につく。
舟を棄てて木立の中をくぐり抜けると平常は人影もない車舎に出る。北の方、姫君用の牛車三輛が納められているその建物の前を過ぎて行くと、西八条の裏庭には、楠の大木が幾本も昼も仄暗く茂って森をなしている。汐戸は姫たちをその中に ── その森の奥に非常門がひっそりとある。この門は、かつて六波羅の」総門近くまで義朝の軍勢が寄せて来た際の経験から、清盛が万一の場合の婦女子の脱出口に備えて造ったもので、非常時以外は用のない門ながら、手槍を持った若い雑兵が二人門脇に控えている。今日はその門番役の傍に弥五左老が立っていて、姫一行の姿を見ると、「開門」と小声で命じた。
左右に開く重い門を無言で一行が出ると、背後から弥五左の声が追いかけた。
「汐戸、安良井、よいか、ぬかりなくお供いたせ。美濃六どの御苦労でござる」
門はふたたび閉まった。
汐戸も安良井もホッとした。同時にこの門に無事帰りつくまで油断はならぬと緊張する。
美濃六は小舟を降りる時から、舟に入れてあった唐櫃からびつ二つを荷棒にないぼうに結びつけて肩にしている。
旅姿の女性のお供の下僕にふさわしい姿のためでもあり、その櫃の一つには、姫二人がもし途中で疲れられた際の休息用の折りたたみ自由のあぐら・・・(椅子)二脚が納めてあるのだった。もう一つには二人の姫がさっき脱がれた衣装をまとめて、汐戸が手早く納めていた。
一行は門からのしばらくの道まで言葉少なかった。お供たちは責任の重さに、姫たちはさすがにこの秘密の冒険に小さい胸がおどり、言葉もないのだった。
── やがて洛中の賑わいが遠く潮騒しおさいのようにひびくほど、一歩一歩町の中へ近づいて行くにつれ、典子は佑子の袿のたもとをつかむようにして身を摺り寄せて、はしゃぎだした。
その姫を中心に汐戸たち三人が歩んで行くうちに、どこからか現れて前後左右を囲んで歩く六、七人の旅の商人らしい、いずれも遠路の旅装のたくましい男たちの姿は、姫たちにはわからぬが、汐戸にはわかっていた。それは弥五左老の配慮で西八条守護の侍たちが、苦心の変装で姫君護衛に遠巻きにして歩いているのだと・・・察しられて、汐戸はたのもしく安心する。
けれども ── 姫たちにはそれはわからぬ。その姫ふたりが、はっきり知ったのは、自分たち一行のうしろに、いつの間にか汐戸の孫の小六が現れて、尻尾をぜんまい・・・・のようにくるりと巻いた犬を引き連れて付いて来ることだった。
彼は典子の乳兄妹としての特典から、一般の家臣の子たちがみだりに立ち入れぬ庭園の池畔や築山のも遊びに来るのも咎められぬので、佑子も顔を見知っていた。
汐戸は孫のたっての頼みで付いて来るのは許したものの、
「町の中をお歩きの姫方へ心やすだての言葉をかけてはならぬぞえ。されども、もし姫方に無礼の振舞いをする者あらば、太郎を飛びつかせるのじゃぞよ」
と、言いきかしてあるから、小六は犬と共にあまり近寄らず、離れもせずに姫の身辺警護のつもりで歩いている。
2020/10/23
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