~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
変 幻 (二)
平安時代の初めから平安京と呼ばれた政治の中心都市、京の都の中央を、朱雀すざく大路が貫いている。その大路の北には皇居があり、南の正面には羅生門らしょうもんが平安京の正門として聳えている。
この朱雀大路を境にして東方を左京、西方を右京と呼んでいる。平家一族全盛の頃は右京はしだいにさびれて、左京のみ家も人も集まり、洛外にまで発展していた。
その左京の町七条は商工業の中心地で、京都にある貴人、文官、武士たち多数の消費物質を供給する各種の商人の店舗が軒をつらねていた。
その店はいずれも民間の建築様式の茅葺かやぶき板葺の切妻屋根で、暴風に備えて石を屋根に配置したのもある。周囲は網代組あじろぐみ、上に格子窓を開き半蔀はじとみ(釣り上げ戸)を上げて明りを取り、街路に向かって承引陳列の見世棚が造ってあった。
この町の賑わいを姫に見学させるために、あれこれと大骨折って忍びの警備までつけて汐戸たちが案内するのである。
佑子は童女の頃から庵主の尼僧に手を引かれて、幾度かこの商店街を通ったことがあるゆえ、珍しいところではなかった。けれども典子には自分の育つ環境からは、まったく別天地の光景だった。
布の店、くしの店、針、油、米、塩、木器それぞれの店、生魚を張り出し板の上にならべた店。見るものはみな驚異である。その中でも幼い典子にもっとも興味おを覚えさせたのは、食べ物店だった。さまざまの形のもちいを並べて道行く人の立ち食いにも売り、すでに夏めく季節の清涼食品の心太ところてん、これは客があると包丁で切って椀に盛り、辛きはひしお、甘きは甘葛の汁をかける。荷馬を曳く馬子が通りがかりに入ってそれを急き込むようにすすり込む。典子はその光景に歩みを止めて、またたきもせずに見詰めていたが、
「あれ、欲し、欲し」
と、乳母の安良井にせがんだ。欲しいとは食べたいという希望に通じる。
これには汐戸も安良井も動転した。
「これはいかなこと、あれは下賤の者の口にする海の藻屑で造りますもの、姫方に台盤所から差し上げる葛切くずきりとは品がちごうて、おからだにさわりましょう」
「葛切よりあれ欲し、欲し」
典子は動こうとしない。
「あちらの店で扇をつくるのを典さま御覧ごろうじませ」
妹にも丁重な言葉づかで佑子が誘って手を引くと、やっと彼女は心太を諦めて歩きだす。と、また一瞬、扇造りの職人が店先で幾人か扇制作の過程を見せて、見世棚に扇を飾り立て、購買欲をそそるその店の横手の道に茣蓙ござを敷いて髪に頭巾お巻いた女が小袖に帯だけの姿ですわり、膝の前に置く箱の中に、麦粉をこねてまるめて蒸した饅頭を並べて売っている。
「あれ欲し、欲し」
扇子などは美しい檜扇ひおうぎが西八条の館に山ほどあると思う典子には、扇より物売女の箱の中の食べ物に意欲をそそられる。唐菓子と違って野趣に富む奇妙なものが、むやみと欲しいのである。
困り果てた安良井は母の汐戸の耳もとに泣き声で告げる。
「もうほどほどに早うお引き上げ願わねばなりませぬ。あれ欲し、欲しと、典姫の仰せられるたびに、この安良井の命が縮みますゆえ」
その苦境をまたも救ったのが佑子だった。
これから先のお数珠じゅずをひさぐ店の奥で、数珠をつくるのはいつまで眺めてもきませぬ」
そう言う彼女はまたも典子の手を引いて歩みを進める。佑子にはその店は庵主にともなわれた幼い日から馴染み深いはずだった。
「お数珠! それ欲し、佑さまの水晶と同じの、早うその店へ」
典子はかねて佑子の持つそれを欲しかったのだ。それがこの町の店で売っていると知ると、さすがに心太よりも物売女の茣蓙の前の食べ物よりも、はるかに魅力があった。
その数珠の店まで脇目もふらず一行は歩くとなると、汐戸たちお供はホッとする。
数珠の店のあたりには仏具の店もあるが、また殺生な熊や鹿の革の袴、足袋、行縢むかばき(膝当)の店など立ち並ぶ向こう、小さな茅葺の屋根の下に、見世棚もなく道路に向かって開けた小間に、翁の面のような老人がひっそりと精魂込めて筆造りに余念もない。
2020/10/24
Next