~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
学 び の 友 (一)
七条の店舗のつづく一筋の通りをあらまし姫の眼に触れさせると、一刻も早く汐戸は西八条に引き上げようとした。
典子の「あれ欲し」にも、小六の命令で誰にも噛みつく太郎の猛勇にも、その度に肝を冷やしたお供たちは、またもや何事か起らぬうちにと思う。
「もう、あらかたこれでおよろしゅうございましょう」
と、汐戸が佑子にお伺いをたてたのは、典子を巧みに誘導出来るのはこの賢い姉君にかぎると思ったからである。それは佑子にもわかっている。けれども・・・典子の洛中見学がこの繁華な七条通りだけでは、中途半端な気がした。
なぜなら佑子自身は尼寺で育った頃、庵主に手を引かれて歩いたこの大きな都には、大都会の恥部とも見える場所があるのを知っていた。それはもう少し足をのばして眺めねばわからぬ。
朱雀大路の中央から二条、七条、九条まで大小の人家が並んでも、そこから離れて裏の道にそれると、臭気の漂う汚水の流れる溝が東西に通じ、そのあたり塵芥が満ちて散乱する街裏であり、そこには人生の落伍者、貧困の底から這い上がれぬ人たちが朽ちた屋根の下にうごめいているのを佑子は見て、幼い胸が迫った忘れ得ぬ痛ましい記憶を持っていた。
もれからもう一つ見たのは、賀茂川や桂川の河原には飼い主もない野犬や猫の死骸、それはまだしも、家なく食なき流浪の人々の行き倒れの餓死者が哀れな骸を毎日のようにさらしている。
そうした亡骸を処理する役の者を犬神人いぬじにんと呼ぶのも、佑子は庵主から聞かされていた。庵主はその犬神人の片付ける坊骸に合掌、経文を唱えると佑子もそれに声を和したのを忘れられぬ・・・。
と言って、いま典子にそこまでいちどに見せることはたゆたわれる。佑子は自分と違って生れてからの環境と成長過程の違うこの妹の現在の童心にはふさわしい七条の賑わいだけを見せて切り上げるのに同意した。
「西の対を留守にしてあまりに遅うなっては西八条のやかた中ひとかたならず騒ぎましょう」
佑子はこう典子に言って帰りを促すが、彼女はすでに汐戸たちの働きで、母の時子も承知の上で万端手落ちなく計らって、今日の洛中見学が許されたと推察していた。さすがに溢れる溝の汚水のあたりの裏町に貧しき者の集い棲むのも賀茂の河原の流浪の果ての行き倒れのむくろを見て育った少女の知能の成長は、年齢より大人びていた。
── 西八条の非常門は、美濃六の合図のかけ声を待ちかまえていたように忍びやかに開かれて、一行が入る。楠の森蔭で汐戸が美濃六のかついだ唐櫃から姫の平常着を取り出すと、美濃六は素早くその場から裏のはるかな雑舎の方に姿を消す。小六と犬の太郎はすでに途中の裏門の近くで一行から離れ去っていた。
姫の社寺詣の旅装は汐戸、安良井の手で平常着に脱ぎ替えられて、やがて庭からお帰りのように西の対の簀子すのこの縁から居間へ戻られた。
佑子の姿の見えぬ間に、寂し気に閉じこもっていた雪丸が飛びつくやら、侍女たちがホッとするやらのなかを、急いで汐戸は北の対屋の母君へ報告に急いだ。
典子の「あれ欲し」もさまざまあったが、数珠屋の店で一段落、太郎が行人に吠えつき革袋を噛み切り、あやうく一束の筆の地にこぼれるのを、佑子が素早く市女笠で受け止められた話。汐戸はそうした今日の出来事を次から次に語る。
「それは、それは、さぞかしそなたたちにも気づかいをかけた事であろうが、無事に典子の望みを叶えてやれて何より・・・けれども二度とは出来ぬことよの」
北の方は上機嫌であった。そして典子姉妹は母に絶対秘密で今日の大冒険をやってのけたと、いま対屋で喜びに興奮しているかと微笑ましかった。
「それにしても、西八条の姫とは誰も気づかなんだであろうの」
時子の問いに、汐戸は自身をもって答えた。
「はい、それはもう、社寺詣の旅の御衣裳に市女笠・・・通りすがりの人にわかろうはずもございませぬ」
だが、世尊寺伊行が遠くから眼をとめて、姫たちと確認したのは、傍につくお供が顔見知りの汐戸、安良井であったゆえとは利口者の彼女もうっかりしていたのだった。
2020/10/26
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