~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
学 び の 友 (二)
その伊行は二日後の姫たちへ教授の日に現れて、いつものように対屋におわす姫へそれぞれの講義をする時、佑子にも典子にもひとこともあの七条の町通りではからずも見たことを口に洩らさず、顔色に表さなかったのは、あの日のお忍びの行為に対して当然の配慮であった。
その日の科目が終わると伊行は汐戸に向かって、
「本日は北の方にお許し戴きたき儀あってお眼にかかりたいが、御都合いかがでござろうかな」
「ほかならぬ世尊寺さまには、北の方いつにてもお会いなされましょう」
汐戸は彼を北の方の対屋に案内して、伊行と時子の対面の間のうすろに控えた。
「いつもながら姫たちへの御指導に御苦労かけます」
まずひととおりの挨拶がすむと、
「じつは本日よりしばらくの間、姫君方への講義を休ませて戴きたく、その御許しを願いあげます」
「ほう、それはまたどのような御事情で?」
「すでに北の方も御承知でございましょうが、このたびの厳島神社への御納経につきまして、御一門揃って一品一巻、合せて三十二巻の写経の文字は各専門の書道家へ御委嘱ありしなかに、この伊行もその栄を蒙り、この秋の御納経までに斎戒沐浴さいかいもくよくして写経を果たさねばなりませぬによって余儀なく姫君方への講義はその間・・・」
みなまで言わせず、時子はこころよくうなずいて、
「そういう事でございますなら、御斟酌しんしゃくなく御写経に御専念下されませよ」
良人の寄進する厳島への納経三十二巻のみごとな出来を時子も念じる。
伊行もその為に先日七条のかの筆造りの翁のもとへ新しい筆を注文に行ったのだった。
時子は控える汐戸に言う。
「世尊寺殿の写経の成るまで、お講義はお休みなれど、その間も姫たちの手習ごと怠りないきよう、そなたたち心得てたもれよ」
「はい、かならず心得おきまする」
汐戸がかしこまって答えるより早く伊行が言う。
「いかにも北の方仰せのごとく、姫方の御教養は一日もなおざりにはなりませぬ。妻夕霧は筝の御教授を休まずつとめまするが、読み書き和歌の学習も、しばらくは日々復習を旨なさればまおことに結構に存ぜられます。そのお相手に私どもの娘奈々ななが徳姫さまとよわいも同じ、この父の教えにてどうやらおぼつかなく文字を知り歌の真似ごともいたしておりますゆえ、ここしばらく御学友としてお相手に、ときおりまかり出でてはと存じますが、いかがでございましょうか、御意ぎょいを伺います」
「おお、それは何より、この館にて姉妹のみの相手より、世尊寺御夫妻お仕込みの娘御に加わって戴ければそれは励みになりましょう。願ってもなき事、ぜひお連れ下されよ」
時子はわが娘たちのよき刺戟のためにもと、喜んだ。
2020/10/26
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