~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
学 び の 友 (三)
かく上首尾で北の対を辞去する伊行を送り出すと、汐戸は西の対に足を急がせて、対の入り口近くの自分たちが休息に控える処に居合わせた安良井を見ると、そこに入った。
「世尊寺さま、厳島納経のためしばらくはお見えにならぬ間も、ひいさまがたのお習いその他をおすすめせねばならぬと北の方の仰せじゃったゆえ心得るがよい」
「では、有名な名筆の方たちが、あの御写経をなされるというお一人に入られたとみえますの、まことに御立派な絵で美しく飾られた経巻三十二巻とのお噂でございますよ。でも北の方はあまり委しくは御存じではございますまし・・・」
安良井は何か含みのあるもの言いだった。
「殿が遊ばす御写経のことを北の方がよくも御存じないはずはなかろうに」
「それがしあしあってと ── 噂されます」
「何の噂か」
汐戸はいやな予感を受けた。
平安朝以来、「法華経を書き写、美しく外装して神社や寺院に奉納して、現世の利益と来世は極楽浄土へと祈るのが流行だった。清盛も家門の隆盛を謝して来世の妙運を祈願してその一門の名によってその年の秋に、かねて信仰する厳島神社に納めるというのは、平家にとってふさわしい事と汐戸は思うに・・・何かそれについて“うわさ”がとは合点がゆかぬ。
「その噂とは、厳島の美しき内侍が殿の御寵愛をうけて懐妊、そのまま家臣の越中前司ぜんじ盛俊殿の妻に与えられてのち生れた方を、御子姫君みこひめぎみと名づけて育てるともっぱら伝えられます」
「なんと殿の御子で姫君というわけか、まあ僭越せんえつ名乗りよの。厳島参詣の接待に出て舞うたり歌ったりする巫女風情の女性にょしょうのお腹からが御子姫君なら、この東西におわす姫君方は何と申し上げたらよかろう。まことに腹立たしや」
汐戸は胸がむかむかする。
「ほんによい気なもので・・・そればかりかその御子姫君とやらの生誕もこれひとえに厳島神社の授け給うゆえと、その御礼にこのたびの写経奉納をその盛俊夫妻が思い立ったとの噂でございます」
汐戸は呆れてしばらくものも言えぬ。
「そうとも御存じなかったうちは、御一門さまいずれも納経一巻ずつを御奉納のおつもりだったところ、その内幕がいつしか明るみに出ましてから、御舎弟若狭守(経盛)、門脇殿(教盛)も池殿(頼盛)も申すに及ばず、小松殿(重盛)、宗盛さまもみなこの納経は『御免蒙る』と仰せられたとうけたまわります」
そうなると、おのじとその噂は六波羅の一門の殿舎から西八条にも伝わり、安良井も耳にしたのだった。
「そうであろうとも、それはまことに道理、北の方のお腹よりの宗盛さま、徳姫さま御出産のみぎりに、そのお祝いに厳島へ御納経とあったなら、御一門一族、家臣みなわれもわれもと競ってなされたであろうに、さてもさても殿も御納経の時をお取りちがえなされたの」
汐戸は歎じた。そのおかげでこの西八条の姫君方の学問の知世尊寺殿は写経の為にしばらくおお講義を休まるるとは、姫君こそよい災難といましましい限りだった。
「それにしても、北の方もしこの噂をお聞きあそばさばさぞかし・・・」
安良井はそれを案じた。
「・・・もしや、もうご存知か、それとも・・・なんとあろうと、それはそれ、これはこれ、殿が一門繁栄、後世安楽を願がわれての豪華な御納経にいささかも傷つけまいと胸ひとつに納めらるるはず、それゆえわれらも口をつつしまねばならぬぞい」
汐戸は娘の安良井をもいましめた。
2020/10/27
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