~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
父 と こ の 娘 (一)
平家の厳島納経は、装飾経として絵画に写経に、工芸技術の絢爛けんらんとしたものに作られた。その美術的経巻三十二巻が完成近き新秋に、遠い讃岐さぬきの配所で崇徳上皇がいたわしい一生を終えられると、平清盛の妻時子の哀傷の思いは深かった。
あの保元の乱の始末で。、上皇は讃岐へいわば遠島の刑と、良人の口から聞いて、驚かされたのが昨日のことのように思い出された。
崇徳上皇ははかない御運のお生まれだった。父帝鳥羽法皇に実子と認められず、冷ややかに扱われた不幸な皇子だった。生母の鳥羽帝中宮が祖父の白河法皇の寵を受けたという疑惑からである。
祖父白河法皇の後援で第七十五代の天皇に即位されたが、二十三歳で早くも弟君の三歳の幼き近衛帝に譲位を迫られた。近衛帝の崩御のあとは、今度こそわが皇子をと望まれたが、これまた弟君の雅仁まさひと親王が後白河天皇として即位された。これが発火点となって保元の乱となったのを、良人清盛からも聞いていただけに、時子はあまりに御運つたなかりし崇徳上皇をいたんで、西八条の館の仏前で姫たちを集めて、はるか讃岐の国に葬られた上皇の白峰陵への遥拝のために香を焚いた。
姫の中で佑子の手に水晶の数珠が、典子の手にも同じようなのがかけられてあった。典子のは七条の町見学の記念品である。その姫たちに付き従って仏間のうしろに控える乳母たちの中の汐戸は、北の方の良人清盛は、その頃は福原で、風波で破壊された経島きょうがしまの再築に専念中であるが、その殿は保元の乱の勝者として上皇の遠島を決定した側だった。
後白河上皇はその乱の原因の渦中にあった当時の天皇、いま同母の兄君の薄幸の生涯の果てを知られて何と思召されるか・・・時子は考えると、おそらく好きな今様の歌をあいかわらず口ずさんで、亡き兄君への経文に代えていられるかとさえ思う。
── その夜、朱雀大路の内裏に近きあたりの空にたびたび青白い稲妻が走り、星が流れたのを見て、
「讃岐の上皇さまの怨みよな」
と洛中の人々は言った。
「平家へ御怨みのかからぬよう、北の方のお心づかいよのう」
汐戸たちは今さらに時子の細やかな心情に打たれた。
その年の秋なかばに平家奉納の経巻三十二巻が善美をつくして完成、清盛の願文がんもん(納経の趣意書)一巻をそれに加えて三十三巻が、金銀をちりばめた経箱に納められて、厳島神社の宝殿に安置された。
清盛の願文の中には「この経は清盛、ならびに長子重盛、およびその他の子息たち、舎弟の頼盛、教盛、経盛、縁者三十二人がそれぞれ一巻を分担し、平家一族の合力によって成し遂げた」と漢文でしるされてあった。
けれども三十二巻のうち血縁銘(写経の奉納者名)をしるしたのは、清盛と平盛国、盛信重康の四人のみだった。盛国、盛信たちは伊勢平氏の頃からの同族の重臣で、盛信の息子盛俊が清盛寵女の厳島内侍を妻と戴いたのである・・・肝心の清盛の長子重盛以下の子息も、弟たちも、その結縁銘はその巻にも見当たらず、清盛の願文とは食い違ったのが残念にもあの噂の裏書をした感があったが、それはともあれ、こもみごとな美しき経巻三十二巻は、平家ほろびしあとの後世にこの国の大きな美術文化財として今も厳島に残る。
2020/10/28
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