~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
父 と こ の 娘 (二)
── この納経のこと終わって、その写経を書道家の一人だった世尊寺伊行が久しぶりに西八条に姿を現した。しかも彼は一人ではなく大江広元を同行したいた。
伊行はあの七条通りで、広元が犬に筆入れを噛みつかれて散り落ちる筆を社寺詣姿の少女── 実は佑子の市女笠に受け止められたのが、広元にある感動を与えたのを見逃さなかった。
伊行は若き広元のその胸中の機微きびを突いて、みごとに西八条の姫の漢学の指導を承引させたのだった。さもなくば伊行の手におえる広元ではなかった。
広元は日頃のむぞうさな姿をさすがに少し改めて鳥烏帽子直衣のうしで、緊張した顔には、平家の館に来ておま一代を圧する勢力に媚びるにあらず、ただ可憐なる姫の一人に心魅かれしのみと、さも言えたら言い放ちたいような不屈な自負心を示していた。
その彼を連れて伊行はまず姫たちの母に紹介するために北の対へ渡った。
── 時子は広元をひと眼見た瞬間に烈しく心を動かされた。
それはこの平清盛の妻が今まで見た多くの男とは、まったくちがう男を初めて見たからである。
時子の周囲の平家一族は、みな武士であり、ひと通りの教養もあるが“武”を中心として生きる運命を持って、共通の生活感覚を帯びている。また彼女の知る限りの公卿たちも引眉ひきまゆに色白のおっとりした顔に柔らかな言葉づかい、優雅なもの腰、有職故実の作法に生きる類型的な男ばかりである。けれども、今わが眼の前にあるまだ十六歳とかのこの若者は、やはり大江匤房以来の公卿の階級の子孫というのに、世の常の公達とまるで異質の強烈な個性を持つと思えた。
色は浅黒く、眉は濃く、その下の眼は大きく鋭く、身に余る学力、知識、思想の溢れみなぎる二つの窓のようである。とがった下頤したあごにはなみなみならぬ強い非凡の意志とが示されていると見える。まったく時子は、この異質の若者に珍しい神秘な男の世界を初めて覗き見る心境がした。
「かねて申し上げし佑姫さまの漢学の御指導に当たる適任者として、大江広元殿を本日同道いたしました」
伊行の紹介の弁を耳にしてもすぐには言葉も出ぬほどだった時子は、年甲斐としがいもなく・・・わが息子のようなこの年少の一学生がくしょうに身をかたくして、
「おお、それはお引き受け戴けて何よりの喜び、今日より姫への御教授よろしゅう願い上げます」
この北の方の丁重な挨拶に対して、広元は、
「はッ」
とだけ一語をもらして首をわずいかに下げたのみだった。傍の伊行が「なんという無愛想な態度よ」と気をもむが、時子にはこのぶっきらぼうの無口の若者がたのもしい気がする。
伊行は広元と北の方の対面も、ともかくこれですんだので、広元に向かって、
「本日より月に幾度と定めて怠りなく参上されよ」
と言い、時子には、
「この伊行も明後日より姫方への御授業に伺いまするが、本日は正親司おおぎみのつかさへの出仕の御用向きあり、広元殿を西の対にともない佑姫におひき合せいたして、ただちにおいとまいたします次第」
慇懃いんぎんに一礼した。彼は宮内権少輔の職務があり皇族の名簿管理の役所(正親司)に属して、用命あれば出仕せねばならぬ。
「まあそのなかをお出向き下されて、まことに恐縮、そうとあれば一刻も早うお引き取りなされませ。公務のおつとめを寸時もおさまたげいたしてはなりませぬ」
もの事きちょう面の時子にひどく気にされて伊行も落ち着けず、広元を残してその場から立ち去ると、時子は周囲の侍女たちに
「誰ぞ、佑子を迎えに参れ。今日よりの漢学の師に御挨拶のために北の対に来るようにとな。それが師弟の礼儀じゃによって」
時子の言葉で侍女二人がさっと動いた。
2020/10/29
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