~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
父 と こ の 娘 (三)
広元はさきから端然として身じろぎもせず黙々としていたが、このとき彼の覇気を満々と堪える大きな鋭い若々しい眼がかすかに柔らいで、時子に向けられた。
今、最大の権力者として傲岸不遜ごうがんふそんと世に伝えられる清盛の妻が、このように心きまやかな女生徒はかれには思いがけぬことであった。
── やがて、さやかにきぬずれの気配がして佑子が乳母汐戸に付き添われて母時子と広元の前に。
── あたいがほにかに匂うようだった。
「この大江広元殿、今日より漢学の御教示に参られます」
母の言葉に佑子は広元に両手をついて、
「おみちびき戴けますこと、ありがたく存じます」
折り目正しき態度に、広元はうろたえたようで、
「世尊寺殿のおすすめにてまかり出でましたが、御勉学のお役に立てば幸いなれど・・・」
と、あとは絶句して、広元はすっかりとのぼせているい。彼の眼の前には、あの七条の通りで犬に飛びつかれて散り落ちる筆を市女笠で受けとめた少女が、いま平家の姫としてそこにあるのだ。世尊寺伊行の言葉にたしかに嘘はなかった。
佑子は母の前に来た瞬間に、母の前にある客があのむぞうさそうな学生がくしょう風の若人と同じであることは、その強い個性を示す容貌で、はっきりわかった。
けれども、この二人ともこの場ではそれに触れては一語も、もらせぬ立場だった。
ただ汐戸は知っていた。あのお忍びの洛中見物の途上での一つので、確かに見た顔の主が、はからずも今日から姫の漢学の師と仰がれる大江広元さまと・・・汐戸はこの摩訶まか不思議のめぐり合いに肝もつぶれる思いだった。
広元は佑子の為の漢文の師なので、西の対の佑子の居室の畳の上で文机を間に相対して教授する。
そこにつづく板敷きの円座に乳母の汐戸が控える。
比丘尼びくに寺にて漢字はおのずと親しまれたと思われます。経典はこれことごとく漢文、さりながら仏教漢文には特殊の読み方があり多少異なるように感じられます」
「はい、仰せの通りと存じます」
これが師弟の間の、最初交わした言葉だった。
広元はすでに世尊寺伊行から裕子についての予備知識は得ていた。
「『白氏文集もんじゅう』もひもとかれたとか・・・」
「ほんの手ほどきでございます」
「その手ほどきを受けられたのを幸い、これからその白楽天の詩文集を学ばれてはと、そのちもりで始めます。白楽天の試作長恨歌を『源氏物語』の初めの桐壺の巻はなぞらえていると思われます。また清少納言も白楽天の詩を暗誦して時に応じて役立てたり、とにかく女性の心情に適しているとみえます」
広元先生は年少気鋭の学識を披瀝して、まだ少女の美しい生徒に全力を挙げて白楽天の詩を教え込もうと気負い立つ時、典子が雪丸を連れて現れた。
彼女は姉の佑子の漢文学習の間は、雪丸を預けられて、わが居間におとなしくお手習をなされるようにと乳母の安良井に言い含められたのに、その眼をかすめて脱け出したのだった。
でもさすがに幼心にも足音を忍ばせて近づいたので、汐戸も気づかず、広元の言葉をつつしんで聞き入る佑子も知らなかったが・・・あいにく雪丸・・・この愛玩用の小動物は警戒心の敏感な本能によって、いま佑子の前に一人の見知らぬ若い男性が座を占めるのを見るとキャンキャンと吠える。
それで汐戸もはっとしたが、もっと驚かされたのは広元だった。彼はいつぞやのあの町通りで犬が筆の袋に噛みついたのを思い出したかのように身構えて、鋭い眼で振り返るとそこに吠えるちんを連れた童女が立っていた。その顔もたしかに広元には見覚えがあったが、典子の方には洛中のあの出来事で会った若者との認識はまだ無理だった。
2020/10/31
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