~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
流 現 蜚 語 (一)
大江広元は七日に一度は必ず西八条の館に現れて、佑子への漢文教授を怠りなく勤めた。
その広元の労を謝として北の方の時子から彼は歓待された。教授が終わったあと、彼は寝殿の廊の客人用の出居でいの小座敷に招じられもてなされる。例の唐菓子が出されるが、冬の日暮れが早まると晩の食事さえもすすめられる。高坏たかつきの上に並ぶ食品は、日頃学問一筋の生活で粗食に馴れた彼には驚くべき山海の珍味である。大江家の食膳と今を時めく平家の食膳の格段の差があるのは当然ながら・・・。
北の方の時子からは月謝の他に時折に贈物があった。その中に唐壘や唐筆はあって広元を喜ばせた。大小の唐筆は筆巻用の小さなすだれに巻かれ、結んだ紐止めは翡翠ひすいだった。これは姫たちの筆巻と同じである。
教授への謝礼の金品の額は過大なので、
「まだ幼き姫のお相手ゆえ」
と、広元が当惑すると、
「それをお教え願うのはかえってお骨折りと察せられます。御自身の御勉学の時をいての御指導はまことに恐縮、その償いになんなりと典籍てんせき購入のお役にでも立てて戴きたくお納め下されよ」
時子はもの柔らかに広元の面目を立てて、しかもこの秀才の若者に幾分なりと援助したいという暖かさを示して言うと、広元も拒めない。
だが彼はそうした報酬や厚いもてなしのために、この館に通う喜びを持ったのではない。そうした現実的な利得を与える平家の恩恵に尾を振る犬のような立場は、彼の烈しい稔侍が許さなかった。
けれども、時子は彼の誇りを少しも傷つけずに若き学徒として尊敬している。広元はもの心つかぬうち生母に生別、他家にいっとき養われ、また大江家に戻った後は、年齢の違う異母兄たちと兄弟の情も薄く、それに“母”の体温を皮膚にじかに感じたことはなかった。
その彼が、いつしか清盛の妻の時子に、ほのかな母性の滋味を覚えてゆく。
しかし、それだけではない。彼があれほど平家の幼き娘への漢学の手引きなどに甘んじることを嫌った高慢さはのつのを折ったのは、ゆきずりの町でのあの出来事ではからずも心魅かれた美しい少女が、平家の姫と知ったからだった。
その姫の机の前で「白氏文集はくしもんじゅう」を解読するたびに、その九歳の姫が彼の心を強く動かしてゆく・・・まことに不思議な神秘なこの小さな女性に広元は魅惑を覚える。
この引力が彼を西八条の館に通わせるのだった。
その彼は清盛の北の方には幾度も会い、そのたびに親しみを覚えても、まだ彼女の良人の清盛に会う機会は一度もなかった。
清盛は福原から西八条に帰って、妻や娘たちのもとに、くつろぐ日もあったが、朝から公務の為に出て、広元の来る刻には留守なので、清盛が夕刻帰ると広元は帰った後という、いつもすれちがいだった。
広元はいつかは清盛にも会うことを望んだ。今までこの時代の一大権力者に反撥を感じたその先入観も、あるいは訂正出来るかも知れぬと密かに考えるようになったのも、佑子に抱く感情と、そして時子の態度からであった。
── その年も暮れてやがて新春を迎えるまで姫たちの学課も休暇となるので、年内の最後の教授を終わって帰る広元を送り出す汐戸が、彼に告げた。
「北の方よりお伝えせよとの仰せを申し上げます。新年三日の夕よりこの館にて、殿、北の方、姫方お揃いにて年頭(年始)のお祝いを遊ばされ、その折はお招きの方たちにも御年酒ねんしゅ差し上げたく、なにとぞお越し戴きたいとのことでございます」
── 広元がいよいよ清盛に会う機会がこうして来たのだった。
元日には宮廷で小朝拝こちょうはいの儀が清涼殿の東庭で行われ、百官ことごとくこの朝賀式につらなり、にち元日節会せちえの宴となるので、清盛も礼装して美濃六が装束筒を奉じて供に加わる。二日は六波羅で清盛夫妻と重盛以下の息子と異母弟一族と、平家武士団が集まって年頭の宴を開く。そして三日は西八条で平家の女人を中心の宴が毎年の例だった。広元も佑子の師として初めてそれに招かれる一人になった。
彼が席に戻ると、長柄の付いた銚子で、侍女たちが屠蘇をついでまわる。これは肉柱、山椒、桔梗、 白朮 びゃくじゅつ などを調合し緋袋に入れたものを柳にの枝につるして、 大晦日 おおみそか に西八条東南の井戸の水中に浸して元日に取り出し、温酒に和すのだった。
その屠蘇がすむと、台盤の上の歯固の料理に箸をとる。大根なます、押鮎、鯛の あつもの うずら の汁など合わせて七種をそれぞれ銀器の大皿や壺に入れたのを銀の はし さじ で取る。そのあと橘(みかん)、干柿の果物に唐菓子を模倣した有職菓子が出る。
やがて ── 姫の筝曲の弾き めの合奏があり、それには世尊寺夫妻の娘奈々も加わる。
それがすむとき、寝殿正面の白砂の庭に 篝火 かがりび をめぐらし、新しい 茣蓙 ござ を敷き詰めた上で、当日の余興とも言うべき芸人たちの猿楽が始まる。
その時代の猿楽とは、後世の奈良猿楽に観阿弥、世阿弥父子が出現して大成した能楽とは大違いで、滑稽な茶番狂言の喜劇と曲芸であった。これは中国で通俗音楽曲芸の一切を散楽といったのが、日本で音転して猿楽と称されたものである。
その猿楽には侍女たちが袖で顔を覆うて笑いこける。── その頃は一族の北の方が牛車で帰られる。近衛家の北の方盛子も十歳ながら人妻として帰りを急がれる。世尊寺夫妻も大江広元も引き上げる時であった。
── その夜の広元は帰宅しても、今宵初めて対面して言葉を交わした平清盛から受けた印象の昂奮が続いていた。
「やはり怖るべき大人物よな」
彼はともかく直接会って見なければ、その人間への実感はわからぬものだと、しみじみ感動したのである。明けて十七歳の、頭脳すぐれて高慢な若者を清盛はみごとにころりとさせたのだった。
広元にこれほど好印象を清盛が与えた新年の賀宴以来、その後はまた清盛とか顔を合せる折もなかったまま、その年の六月に“永万”と年号は改元された。ときどき年号はふいっと猫の眼の変わるように改められるが、それは間もなく二条天皇が皇太子 順仁 のぶひと 親王に譲位される 前触 まえぶれ のようなものだった。
皇太子はのちの六条天皇となられた年齢わずか二歳の童帝であった。その幼帝に譲位されて二条帝は二十三歳で上皇になられた。
七月末に新帝の即位式が行われた翌日、かねて病中の上皇はみまかれた。
2020/11/02
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