~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
乳 母 の 野 心 (一)
永万二年(1166)三月上旬、花の盛りに清盛の長女昌子が正三位権中納言、官職は右兵衛督うひょうえのかみ(供奉長官)花山院兼雅と結婚成立した。心労は二十歳、新婦は十五歳の春だった。
この昌子の結婚は母の時子をホッとさせた。それはこの長女八歳の時の婚約が平治の乱で破れた不幸があり、二年前に次女の盛子を幼妻として長女より先に六条殿の近衛基実に嫁がせたことからも昌子へ心づかいをしていたから・・・。
摂政関白の家格を持つ近衛家ほどではないが、花山院家も藤原道長を遠祖の堂上貴族の名門だった。その大邸宅は勘解由かげゆ小路にあり、兼雅の四代前にしばらく花山院法皇の御所に当てられたのを光栄として、以後花山院を号するのだった。
── 清盛夫妻が昌子を嫁がせようとしたのは、その家柄だけではなく、兼雅の妹忠子が松殿と号する藤原基房夫人でもう九歳の師家もろいえという子を儲けている。基房は清盛の次女盛子が幼妻として嫁いでいる六条摂政基実の弟である。
その弟は兄と気質を異にする鋭く強靭な性格だった。兄が新興武士団の頭領として成り上がり者の平清盛の娘を貰うのをいさぎよしとせぬ態度を、兄の結婚披露の宴でさえ露骨に示していた。しかし、実兄基実の妻も義兄の妻も共に平家の娘姉妹とあっては、さすがに傲岸ごうがんな基房も平家への態度をつつしまねばなるまい。
その基房夫人の妹、つまり兼雅のもう一人の若い妹は、村上源氏の流れを汲む源通親みちちかと去年結婚したいた。通親も検非違使別当として手腕ある若手の官僚だった。
清盛はこうしてわが娘たちを美しきくさびとして、平家の周囲に強力な閨閥のとりでを築く設計を進行させて行くのだった。
昌子の結婚式もかつて次女盛子の挙式や露顕ところあらわしと同じように西八条の館で行われて、やがて新婦の昌子の牛車は西八条の門辺の落花を浴びて花山院邸に向かった。
こうして西八条対屋の姫は盛子のあとにまた一人姿を消した。東の対には徳子と寛子、西の対には佑子と典子、この四人となった。
そのまもなくの日、時子は姫たちを訪れて東の対の昌子の居間の几帳その他が取り去られて、繧繝うんげんべりの畳だけがさみしく残ったのをしみじみと眺めて、
「姫たちはいずれは嫁ぐとは知りながらなんとなく心さびしいのう」
と、お供のにもらされ、やがて徳子の許へ行かれると、十歳のこの少女は一つ年下の寛子と碁盤の上で乱碁らんごの遊びをされていた。それは黒白の碁石を盤の上にばらりと散らして、双方持ち石を黒と白とに分ち、自分が白なら相手の黒石に指先でわが白石をはじいてカチッと打ち当てればその黒石を取り上げる ── 後世のおはじき遊びのようなものだった。
この遊び事にも双方の乳母が付き添って、
「こなたのこの石にお当て遊ばせ」
などと声援する。
そこへ現れた北の方に乳母たちはかしこまってこうべを下げ、二人の姫も乱碁の手を止める。
「さきほど昌子のおらぬところを眺めて心さびしゅう思うたこの母も、まだ幼げなこの姉妹、のどかに遊ぶ姿に心なごむものの ── さてさて、このひとたちもいずれはこの母を離れて寂しがらせようの・・・」
と時子の言葉の終わらぬうちに、徳子付きの小賢こざかしい小檜垣が差し出がましく、
「北の方、さよう仰せられても、姫方がこの対屋でむげにお年齢とし を召されては一大事。それぞれめでたきお輿入れこそなにより、それにつけてもこのお美しき姫方揃いのなか、おひと方はぜひとも御入内じゅだいあってこそ然るべしと、小檜垣ひそかに祈念つかまつります」
「入内などをしいて望は浅ましいこと、それはみな授かる運、その運もよしあし、小檜垣もだりにそのような願いを口にしてはならぬぞえ」
時子はたしなめて、そこを立ち去り西の対へと渡る。そのあとに従う阿紗伎には小檜垣の「おひと方はぜひとも御入内あって然るべし」のそのおひと方が、小檜垣が乳母としてかしずく徳姫を暗示することが、はっきりわかる。けれども入内とは内裏に入って天皇の女御は中宮かあわよくば后の座につくことであるが、それにしても今わずかに御年齢三歳の天皇には入内の野心など笑止千万と、阿紗伎は心中ほろにがく笑う。
2020/11/03
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