~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
か ぐ の こ の み (一)
── 清盛が健康をそこねたのは、その年の五月頃からだった。病状は頭痛だった。幾人かの医師は口を揃えて「大相国(宰相)の激務過労」と診断した。時子のひそかに案じた通りだった。
「まだ年齢ゆかぬ姫たちのためにもお身体は大切」
と説かれて、西八条の館で療養生活に入った。
今までは平氏武士団の根拠地の六波羅を公務上の公館と、西八条は妻や娘の棲む私邸としてあまりそこに滞在することのなかったほどの活動家の清盛も、医師の勧告に従い、療養のために妻子の起き臥しする華やかな館に初めてゆっくりと身を置いた。
対屋の姫たちには、父がこのように長く母のもとに落ち着いて朝夕を送るのがたのもしく嬉しい。
毎日の朝夕は、東西の対から姫たちが乳母たちを従えて北の対の母も許へ御挨拶に行くことのみ多かったのに、この日頃は父の静養中の寝殿の居間に美しい小袿こうちぎの袖や裾をなびかせてすわり、姉妹四人が声を揃えて、
「お父上さま、御機嫌いかがでございますか」
清盛は眼を細めて姫たちを眺め、
「おう、おう」
と上機嫌で駘蕩たいとうとした気分に浸る。このような子女の父としての家庭の雰囲気を彼は初めて味わう。
まもなく京の都が暑さの烈しい季節に入ると、清盛夫妻の水飯すいはん夕餉ゆうげは姫たち姉妹を入れて庭園池中の泉殿で、一家団欒で催される。水飯とは当時の原始的な氷室つまり山間の地中に深く穴を掘り冬の氷塊を草に包んで埋める。それを氷片に砕き、銀の大鉢に浮かべたなかに蒸した強飯こわめしを漬けて冷やして供するのだった。もちろん水飯だけではなく、それにふさわしい涼味を誘う魚菜の皿がならぶ。
姫たちの日頃は対屋の各居間で、乳母の給仕で一人の膳に向かうならわしだったから、父と母とを囲んでの夕餉の愉しさは言うまでもないが、父の清盛自身が美しくはなやぐわが娘たちを身近に置いて、語り合うて箸をとるこのひとときのこころよさを、現在の年齢になって初めて知らされた。
こうして養生生活は、彼にさまざまの思考を与えた。その頃から、清盛は位階や官職に束縛されて家庭を外にし、さまざまの儀式には衣冠束帯にがんじがらめにされ、放尿さえ思うに任せず美濃六の装束筒を待たねばならに・・・いっそそんな窮屈な宮仕えから開放されてみたい、と思うようになった。すでに官僚として最高の太政大臣の位置に昇ってもみた。いまさら官職に未練はなかった。
そうなると、清盛にはあらゆる肩書が必要がないものだった。そのような官職をいさぎよく棄て去ってもこの世に生きている限り、中央政界に実力を持つ最大の権威者たり得る自信を、清盛はたっぷりと持ち始めた。五十歳になるまでのめざましい栄達は彼のその自信を抱かせる基礎を堅固に築いていた。
その決心がはっきり清盛についた時は、夏はもう去り秋風がさわやかに寝殿造りの大きな檜皮葺ひわだぶきの屋根に吹き渡っていた。
その頃のある日、清盛の正殿の寝室で妻の時子と一夜を共に臥した。
北の方を殿の寝屋に送り込むと、阿紗伎はいそいそと消えるように遠く引き下がる。阿紗伎が控えずとも、宿直とのいの侍たちが一夜中詰所に控えている。
殿が姫たちには豊かな父性愛、北の方にはこまやかな夫婦愛・・・これもみな長閑のどかな月日の御養生のおかげと、阿紗伎は微笑んで廻廊へ出ると夜空に星が美しい・・・だが心きいた阿紗伎も、殿と北の方のその夜の語らいに内容は知り得なかった。
寝屋の灯は丈の低い切灯台きりとうだい、火皿の油盞ゆさんは二枚重ねで夜の明けるまで、ほのかに柔らかい明るさを一隅で保つ。
その灯影のなかで清盛は妻の顔を近く見詰めて、
「わしは太政大臣を辞するぞ」
「えっ、これはまたなんとして・・・。お疲れゆればふたたび御出仕叶いましょうに。医師もみなそう申されまする」
時子は良人が輝かしい冠のような太政大臣、一国の総理大臣の椅子を早くも投げ出すことに女らしい愛情があった。
「案ずることはない。わしに考えがあってのことじゃ。もう重々しい官職はうるさくてならぬ」
「さりとて御政治こそは殿の生き甲斐ではございませぬか、それを惜し気もなくお棄てになって、そののちは何を遊ばしますか」
「出家するのじゃ」
「えっ!」
時子は呆然としてしばらくは言葉もなかったが・・・
「では殿はいまのお年齢で世を棄てて御隠栖いんせい、平氏宗家の家督は小松殿(重盛)におゆずりなされますか」
「いや、あの頭でっかちの聖人君子趣味の重盛などにまだ渡せぬわ」
清盛はからからと笑ってのけた。
「まだ四人の姫があるのをお忘れではございますまい。いずれおいおいによきところへ輿入れさせねばなりませぬ。大相国(太政大臣)の姫として嫁がせたこの母心・・・」
「そのようなんみずぼらしいことを申すでない。太政大臣がなんじゃ、この清盛、それより怖ろしき無冠の帝王になってみせるぞよ」
清盛は壮快な笑い声をたてると、時子は驚いてこの良人を眺めるばかりだった。
2020/11/05
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