~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
か ぐ の こ の み (二)
平清盛から病体その大任に堪えずと太政大臣を辞する願いが出されると、天皇からも後白河上皇からも使者が西八条につかわされて、病ゆれば再び復職せよ、それまで太政大臣は空席として待つ、との慰撫の宣旨せんじが伝えられて、かねての清盛の功労に対して播磨、肥前、肥後の数ヵ所を平家三代まで伝え得る大功田こうでんとして賜った。これで平氏一族の所領地はこの国の半ばに達した。
── 東西の対の姫たちは、父の健康回復までは太政大臣も辞退されてひたすら静養と聞かされて、しかもその病体は心配のないことは朝夕父の顔を見てわかるからなんの憂いもなく、日々の手習い、学習、稽古事は怠りなく続けられる。
佑子はその中で一人漢文の学習にいそしみ、大江広元は教授の日には必ず洗われた。
西八条の庭園の紅葉も散り果て、やがて季節は冬に移る。
京都の貴族生活は池の水辺の泉殿、釣殿を設けて夏の暑さをしのぐ用意があったが、冬に対してはまったくお手上げで、防寒の設備は几帳や屏風をめぐらすだけで、暖房器としては火桶と火取籠のたぐいで心細い限りだった。「枕草子」に「寒き事いとわりなくおとがひなども皆落ちぬべきを」としるした才女清少納言も、京都の冬の底冷えにはあごが落ちる思いで閉口している。彼女が仕えた宮廷もそんなに寒かったからには、西八条の平家の館とて同じであるが、そこが清盛の栄華で屋内に銅板製の畳半分ほどの大きな二重に仕切った箱を置き下に炭火を入れて、上部に熱湯を沸かして、いわば温水暖房法を用いていたのは、彼の傾倒していた宋朝文化の中にそうしたものがあったのかも知れぬ。
その平家特有の温水暖房はもちろん東西の対屋にも置かれてあった。
佑子の漢文の師、大江広元は西の対屋に入ると、
「おお、これはさながら春めくここち」
と驚かされた。
その日の日課が終わってから広元はくつろいで、
「父君もしばらくの御静養にて、ようやく祐姫のかねてのお望みのごとく、尽日じんじつ一事なく書を枕にして眠らるる閑日月を得られたと思われまする」
と微笑した。これは以前広元が初めて教えに来た日、佑子が白楽天の短い詩の一節 ── 尽日後庁無一事、白頭老監枕書眠 ── に托して「父も時々はこの八条で一日御用務もなく書物を枕にうたた寝をなされてほしい」という意味を広元に告げたからである。
「まあ、そのようなしたり・・・顔のことを申しましたのをよく覚えておいでとは、どういたしましょう」
と、佑子は小袿の袖で顔を覆うて、はにかんだ。
「初めてお会いした時は、姫は九歳、その方がそうしたことを言われるので、ほとほと感服つかまつって忘れませぬ」
そういう広元もその時は十六歳であったが、今は彼も十九歳、姫も十二歳、この春初潮を見てからさらに清らかに美しい成長ぶりであった。
いつも姫への講義の間も、付き添い控える汐戸は思わず釣り込まれて言う。
「月日は早いものでございますこと、広元さまにこちらへ初めてお越し戴いてから、もう三年もたちますとは・・・ひいさまもねびまさられて(おとなびて)、広元さまも御立派におなりでございます」
広元にもすでに少壮学者の風格が備わって、汐戸には見える。
「いや、いつまでも書籍の虫の貧学生に過ぎませぬ」
「そのようなことを仰せられますな。いつぞや北の方が、秀才の誉れ高き大江広元どのに、いつまでも姫へのp講義を願ってはもったいない、どこにでも御仕官なされるに・・・と仰せられました」
広元青年を気に入っている時子が汐戸に近頃もらした言葉だった。
「いや、それは北の方のお思い過ごし、つい先年も中務のかつかさ省の図書寮にとすすめる人があったが、それがなんと朝から晩まで写本の勤務では、あたら人間が字を写す道具に化するごとく、腹立たしきあまりに断って、いまの自由に学ぶ身をよしと観念つかまつった。こうして西八条に参上いたして冬も春の心地のこの対屋で祐姫と白楽天の詩を語るはこの広元の無上の喜び、仕官の望みなどはさらさらござらぬ。北の方にさようお伝え下され」
広元は真剣な口調だった。
この彼と汐戸との問答の間、佑子は身じろぎもせず、さしうつむいてじっと聞いていたが、彼女の胸には沁み入るような思いが溢れるのを堪えていたのだった。
「このあたたかさに、ついいつまでも帰らぬでは姫もお乳母どのも御迷惑、これにて退去いたしまする」
広元がそう言って心を残すように立ち上がった時、佑子は何か言おうとして形のいい朱の唇が少し動いたが、ついに言葉には出ぬ言葉となって彼女の胸に埋もれた。
それを汐戸はうぐに察する ── 姫は広元さまをお引き止めなさりたいのだ・・・と。汐戸はその姫の心を受けて代弁した。
「・・・広元さま、ほかに御用なくばゆっくりと遊ばしませ、熱いお煎茶を差し上げましょう」
「それはかたじけないが、またの日に」
広元はいさぎよく対の渡殿に早くも姿を消した。汐戸も強くは止めかねて、あとに従い見送りに出て渡殿をたどりながら、引き止められたことをいいことにして、座り込んでも歓迎される愧を、さすがに三代の侍読大江匤房の曾孫の気品を備えて男の羞恥心を床しくもっていられる・・・とむやみに感動してしまう。
── その日はことに寒い鉛色に空が垂れ下がったような夕刻だった。
広元を中門の廊下まで見送って汐戸は首を縮めて対屋に戻ると佑子に告げた。
「外は風花かぜはなが舞って風が出て参りました」
佑子はそれを聞くと顔におのかに愁いの色がのぼる。
「まあ、その中を小二条のお邸までおひろい(徒歩)でお帰り、お風邪を召さねばよいが・・・」
広元が春のようにあたたかいというこの対屋を出ていきなり風花の舞う巷に出ては、かえって寒気はひとしおであろうと汐戸も思うが、
「殿方はお強うございますよ、それに広元さま血気盛んなあのお年齢ではございませぬか、御案じ遊ばしますな」
2020/11/06
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