~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
夜 の 鶴 (一)
── 兵部権大夫平時信の娘がいま日の出の勢いの六波羅の若殿を射止めたそうな・・・。この噂のうちに、まもなく六波羅の館に彼女が迎えられたのは、清盛二十八歳、時子十八歳の久安元年(1145)である。
そうした羨望のまととなった時子の生活の内面は、はたしてどうであったろう。第三者にはうかがい知れぬ苦難の境地に彼女は置かれていたのだった。
彼女にとってしゅうとめに当たる房子には、時子は初めから歓迎されぬ嫁だった。
息子の嫁を上の権力から押しつけられたというのが、姑の房子の心に屈折を与えていた。その眼で時子を見るから、時子のてきぱきとした言葉づかいさえ「大宮(皇太后)をかさに着て」とついひがんでしまう。
花嫁時子の輿入こしいれの荷が届いた時も、房子の眼にはその持参の新調ながらいかにも質素で、いくつ年をとっても着られるような地味なものばかりだった。もすこし豪華絢爛けんらんな衣裳でなければ不服だったから、つい清盛に愚痴をもらすと、彼はこともなげに言った。
「なに、輿入れの支度に無理をさせぬがよいと思い、着るものは六波羅に来てからいくらでも調ととのえてやれるから、裸で来いと申しつかわしました」
「えっ、裸で来いとは、まあいやらしい」
房子は真顔で呆れて二の句が継げない。
そうした継母はかねがね清盛には苦手であった。だがやはり真っ向から反抗は出来ぬ。それは生さぬ仲という事情よりも・・・清盛の生母は祇園の女御にょうごとやらに仕えた侍女で氏素性うじすじょうは誇れぬ。だが継母は修理大夫(皇居修理職長官)藤原宗兼の女である。そこに清盛の劣等感があった。
時子がとついで初めて知ったのは、良人の心の底にひそむこの劣等感であった。その良人の痛いところをわが手であたたかにかばうためにも、姑房子に誠意をもって尽くさねばならぬと努力を惜しまなかった。だがあいにく房子には女性的な狭量に加えて感情の起伏が烈しく、はで好みの性格でおよそ時子の手のは負えぬ人だった。この嫁姑の問題一つでさえ重荷の上にさらにもう一つ、継子重盛も問題だった。
彼女は先夫人の遺児があるのは承知で、それを覚悟で嫁いで来たのだ。その重盛の亡き母がいかばかり心を残して世を去ったかを思いやると、その忘れがたみに叶う限りの母代わりとなって尽くすのは、遣り甲斐のある女の意義ある仕事だという信念をかたく抱いていた。
その信念を強く時子に植え付けたのは、彼女を実子の如く愛し育て、清盛に嫁がせるまで心を尽くした継母裕子の真心だった。
時子は一日も早く重盛を馴れ親しませようと膝近く呼び寄せて手をとると、この八歳の男の子はさも怖ろしい女にさらわれるのを警戒するように、白い眼をして睨みあとしざりしてうしろに控える乳母のたもとすがり付いてしまう。すると乳母は得意になって重盛の手を引いて連れ去る。それはいかにも ── 継々まましい母君になどうっかり任したら、どんなめにおあいになることか、やれこわいこと ── と言わぬばかりの態度だった。
この乳母たちは重盛の祖母に当たる房子の勢力下に属するものだった。そうした周囲にかこまれ育った重盛は、内面的な、さながら自閉塞の童子だった。それをいかに扱うか、この難問題は時子の前に厚い壁となって理想と現実の落差をしみじみと思い知らせた。彼女はやつれて心萎えた。
この若夫人のやつれが目立つと、良人の清盛は、
「どうした、去年の牡丹園で初めて会うた時の颯爽たる蓬姫を失ってはいかん。わしはあの時の蓬姫が好きで妻に迎えたのだぞ」
と、励ました。だがその昔の怖いもの知らずの若さを思うがままに発揮出来ぬ障害が、姑の房子と重盛にあるとは時子には断じて口に出来なかった。
2020/09/27
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