~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
あ ね 、 い も う と (一)
清盛が太政大臣を辞した年も暮れた翌仁安三年(1168)の新年の宴は、清盛療養中の理由で六波羅も西八条も取り止めとなった。
それからひと月後、当時の二月はもう春めく季節の十一日の朝、いつものように対屋の姫たちは父のもとに御機嫌を伺いに乳母を従えておもむくと、のぞけるように驚かされた。
彼女たちの眼の前には、思いもかけぬ異形いぎょうの父が居たのだった。
それはたしかにわが父である。けれどもその父はなんと墨染すみぞめの僧衣をまとって、頭の髪は剃り落とされて青々としている。
姫たちは朝の挨拶も忘れて、まじまじとその僧形そうぎょうの父を見詰めて言葉もなかった。
わが娘たちをそのように驚かせた父はここちよげに闊達かったつな笑い声をたてる。
その父の傍に緊張した顔つきで付き添う母の時子が、姫たちのを失った心を押し静めるように言い渡した。
「父上は御病気平癒を願われて御出家遊ばされました」
姉妹みんなしいんと静まり返っている中に、末の十歳の典子はおめずおくせず、いとも無邪気な質問を発した。
「父君はお坊さまになられて、どこのお寺へお入りになるの?」
それに母がまごつくと、父は平然と言う。
「どこの寺にも入らぬ。姫たちを棄ててどこへ行けよう」
時子がその良人の言葉を補った。
「父上が病魔退散を願われての御出家とて、こののち散位さんにの元老として御政道に尽くされることは、今までと変わりませぬ」
散位とは官職は辞しても位階は変わらぬこと、清盛は従一位の元老として政界に君臨するのである。
そうした出家の形式では、高僧の受戒じゅかいを受けて仏門に入るはずもなく、近習の手で髪を剃り落とし、法衣をまとっただけの俗世の人である。
「じゃが出家はいいものよ。これからは鳥烏帽子も冠も乗せずに済むこの頭は軽くてさわやかで、まことに心地よく、たしかに病はわが身を離れたわ」
清盛は青々とした頭を手で撫でて見せる。
「よくお似合いで遊ばします」
末席から汐戸がうやうやしくこうべを下げて申し上げると典姫が仇気あどけなく笑った。
「おう、いかにも、たしかに若返ったであろう」
と上機嫌の清盛はまったく病を追放し、旧に倍しての精力的な顔になっていた。ながい療養中を西八条に籠ったまま運動不足で、前よりふとって顔まで肉づいて見えた。
姫たちはそうした父の姿にはまだ馴染めず、驚かされたまま僧形の父の前を静かに立ち去った。それに付き添う乳母たちが姫たちほど驚きもしなかったのは、おそらく前もってひそかに北の方から殿の御出家を告げられていたとみえる・・・。
その日から清盛は入道大相国だいしょうこくと世に呼ばれた。大相国は唐語からことばで宰相。一門一族の武士たちは入道殿と呼んだが、西八条に仕える女性たちは入道様と呼んだ。
清盛は法名を浄海と自分で選んだ。大輪田の築港、瀬戸内海の音戸おんどノ瀬戸の開鑿かいさくと、彼の雄大な企画は海にひろげられる。その海にちなんだ浄海・・・けがれなき青海原に大きな夢を描いたこの浄海入道の大経綸けいりんの手腕こそ、八白年後の今のこの国のヘドロの海にぜひともほしい・・・。
── 太政大臣を弊履へいりのごとく棄てた浄海入道は、ながらく悩まされた頭痛も嘘のように消えた。
「まさしく出家剃髪のおかげよの」
剃りたてのわが頭をつるつると撫でて得意だが、その頃に朝廷の侍医に任じられた丹波兼康は特に清盛の診療に当たっていたが、清盛出家後の健康診断をして注意を与えた。
「ながらくの御療養中に御身体まことに肥えらか(肥大)になられたは、ゆゆしき(不安)こと、万が一にも風病(脳卒中)のもととあいならぬよう、蒸風呂にて脂を流され、朝夕は弓矢の稽古などに四肢をお使いなされたく」
丹波兼康はかつて清盛の父忠盛が風病で倒れた時、六波羅に駆けつけた記憶があるだけに、清盛が保養に引き籠って運動不足で肥え太ったのを案じる。
── 西八条の館に直ちに蒸風呂が設けられた。檜造りの天井は低く床は簀子すのこ、外の焚口から焚く火で熱湯の白い湯気が簀子からゆらゆらと立ちのぼる。その密室の中で清盛の裸体に接して汗脂を流すのを手伝う役目は美濃六平太が仕ることになった。
彼は清盛が官職を辞し僧形となっては、もう装束筒の必要もなく失業となったが、新たに御湯殿もりを命じられたのだった。いずれにしても清盛の肉体に触れる役の彼はあるじから信頼あればこそだった。
2020/11/08
Next