~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
あ ね 、 い も う と (二)
その蒸風呂励行と共に清盛は毎日六波羅に出向いて家臣と弓を射て適度の運動をし、僧衣の政治家として無言のままに中央政界に君臨を計った。その希望の実現が早くも見えたのは、彼が出家した日から八日目に六条帝が皇太子に譲位されて上皇となられたことだった。皇太子は翌日即位、高倉天皇となられた。天皇は八歳、上皇は五歳で天皇の甥に当たれてるという何やら不自然な感じだった。
清盛は浄海入道となって九日目に、かねて念願の天皇の外戚になった。入道殿は天皇の伯父であり、伯母は時子である。その妹の滋子は天皇の生母として建春門院の院号を与えられ、弟時忠は権中納言に昇進した。
清盛が病中辞職のまま、しばらく空席だった太政大臣には、清盛の長女昌子の嫁いだ花山院兼雅の父忠雅が任命された。
「浄海入道となられて数日を出ぬうちに、かくも一門にめでたき事のみ重なるものかな」
と家臣一同は喜びさざめいた。
高倉天皇即位を祝う宴が六波羅武士団の館で行われた夜、来賓の権中納言時忠はしたたかに酔って言い放った。
「平家一門にあらざるは、これみな人非人にんぴにんよな」
── この言葉が世に伝わり広まると、時忠は西八条の姉時子に呼びつけられた。
「あまりに驕りたかぶりし放言は、世のそしりを招く災のもと、ちとつつしまれよ」
と、たしなめるこの姉には頭の上がらぬ時忠だった。
「このたびの皇位を継がれ給いし高倉帝は姫君がたの御従弟いとこにあたられます」
と、東西の対の姫君方の乳母たちが誇らしげに姫に告げた。
「どうしてみかどがわたくしたちの従弟なの?」
と幼い典子などは飲み込めない。
「高倉天皇の御生母建春門院さまは姫の叔母君でございましょう」
と汐戸が説明しても ── 叔父の経盛、ちんを贈られた教盛の子息たちには顔を合わせる機会があるのでそれはいとこ・・・と思うが、どうも一天万乗の天子がいとこ・・・とは実感が湧かないのだった。それは典子だけでなく、ほかの姉たちも叔母君が皇子の生母とは前から知っていても、やはり実感には遠かった。
その姫たち反応を汐戸が北の方に洩らすと、
「それも無理がなかろうの、宗盛たち男兄弟は武士として皇居に参内いたすが・・・さりとて姫たちをぞろぞろ連れて拝謁を願い出ては、それこそ平家一族の僭越せんえつな振舞いなどに伝えられても難儀なんぎ、これは建春門院に願って西八条へよき折にないないの御幸みゆきを仰ぐお許しを得れば、姫たちも仕合せよの」
「それはまことによき御思案、いつぞや法皇さまも建春門院さまと御同道にて福原の館に御幸、宋船来航の宋人たちを御覧あそばされた例もあり、入道さまがお願いなされますれば必ず・・・と存じまする」
「では入道殿に申し上げてみるとしよう」
時子は良人にはかって貰うことにする。
浄海入道も美しき娘たちを高倉帝に認識させたい野望を抱いていたから、さっそく建春門院にそれを願い出ると、
「御即位後は万機に臨み給う御日常、春秋の除目じもく(諸臣の官職の任免を行う式)その他の儀式にも始めてお出ましとて、お馴れになるまではしばらくはいずこへも御幸のお沙汰はむつかしいとは思われますが、よき折にかならず」
との御返事だった。
まだ少年の帝が万機に臨まれて政事を裁断されようはずもなく、それは万事後白河法皇の院政によるものだが、表面の形式では天皇は清涼殿の御座前で行われる除目にも司召つかさめし(在京の諸官の任免)の除目にも長い時間玉座にあらねばならぬ少年帝だった。天子の威厳を保つその形式が滞りなく行われるようにと御母の建春門院も神経を使われる。御幸どころではなかろうと清盛夫妻も察して時機を待った。
2020/11/09
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