~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
あ ね 、 い も う と (三)
清盛があざやかに出家したその連鎖反応のように後白河上皇も剃髪、法名を行真と称されて法皇になられたのは、翌年“嘉応”と改元された年の夏だった。
同じその年の晩冬のある日、汐戸は祐姫、典姫の春着の相談に北の方の居間に伺うと、いつも傍近く控える阿紗伎が何かの用で姿が見えなかった。侍女たちが遠くの障子の外の板敷に二、三人居るだけだった。
「姫たちの衣装は乳母のそなたそのたたちの見立てに任せておけばあやまちなしじゃ」
と一任されて汐戸が引き下がろうとすると、
「汐戸、かねてそなたに聞きたいと思うたことがあある」
と北の方に引き止められた。
「佑子の漢文の師、広元どのはこの年月怠りなく姫への御教授をつづけらるるか、そなたはその折に必ず傍に控えておろうの」
「はッ、仰せまでもございませぬ。姫へお付きの乳母の役は忘れませぬ」
と、答えながら、汐戸の良心は少したじろぐ。・・・お二人が相思の仲と知って以来、ときどきはお傍を離れて差し上げたい気もおのずと起きるのをいなめぬ彼女である。
「広元殿どのはさじかし節度正しく、みごとな御教授ぶりであろうの」
「はッそれはもう、さすがに名たる儒家じゅかの御子息とて一点の非の打ちどころもなきお振舞の床しさ、おんもの腰の正しさ・・・」
汐戸はここぞとばかりに力を入れて広元を褒めそやしたのは、祐姫の未来の背の君とひそかに切に願う彼を、北の方に推奨すいしょうする熱意からだった。
「さもあろう。して典子までもが姉の漢学を学ぶ机のそばに時折座って聞いているそうじゃの」
おそらく、乳母の安良井がもらした事であろうが・・・と汐戸はうなずいて、
「はッ、それはもう、いつぞやも亀の字はこう、川の文字はこれなどと、姉君からお聞きのことを仇気なく仰せられると、広元さまもお可愛げに典姫もさまにnお優しく・・・」
「では、典子も広元どのに甘えてなつくと見えるの」
はッ、仰せの通りでございます」
汐戸は北の方へ身近く招かれて、さてはいよいよ広元さまを祐姫の婿がね(候補者)にとの御思案の御相談かと、胸はずませて北の方の傍近くいざり寄る。
「汐戸、そなたもよく知るように、この館の姫というは六人、わが腹を傷めしも、脇腹もこの身の手許ではだけなく育てし甲斐あって、昌子、盛子もよきところに嫁ぎしように、やがて順を追うてみなそれぞれに平家の栄の枝葉の広がるが如き良縁を得て、東西の対屋をあとにするであろうが、さて・・・心にかかるはあの典子、生れた折のひよわさからも末の幼き娘とてつい甘やかして、あのようにやんちゃなわきまえなき子とて、そなたや安良井の手にあまるはよう察する」
「おそれ入りまするが、さりとて典姫さまはお心根は御利発りはつ、お年齢と共にやがておみごとに御成人遊ばされましょう」
「そう申すそなたたちのあたたかい心に守られているうちはよいけれど、やがて嫁ぐとなって、その婿君がたとえ家柄、官職は高かろうとも、典子のやんちゃの怖いもの知らずの気性に呆れて、はてはうとんじられて見放される不幸を招くかと、この母はそらが気がかりであの典子は軽々しゅう手離されぬ気持じゃ」
「北の方の御案じもことわりながら、この広い世の中、あまたの公家のおわすこの京の都、典姫さまのお可愛らしきお心を愛でられる公家のお一人やお二人おわしまさいでか・・・」
「おお、それよ。その一人こそあの大江広元どのであろうが」
「えっ!」
汐戸はあやうくのぞけるほど、動転して言葉もなかった。
「幸い、典子も広元どにになついているとのこと、また広元どのも優しく典子をお扱いとあれば安堵いたして典子の生涯をお任せ出来ようと思う。典子の輿入れ先はこのように念を入れねば先が案じられるが、それに比べて佑子のように眉目美しく才たけて、あのつつしみ深き気質なら、どのようなところに嫁いでもみごとな北の方になろうゆえ何も案じるには及ばぬのう、汐戸」
2020/11/10
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