~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
青 春 の 幻 (一)
── 汐戸の胸に溶けさることのない黒いかたまりがつかえる日々が、北の方から典姫の未来の婿君に大江広元をと心づもりをひそかにらされた時から続いた。
その頃の日、大江広元が祐姫の漢学指導に現れたのは、この日以後明春までは姫たちの学習が休みに入る時だった。
汐戸はいつものように、お講義中にそっと目立たぬように姿を消したかったが、先日の北の方からもらされた一件があっては、その進退に困った。
その日の講義がすらすらと早く終わると、広元は改まった口調で、
「もはや姫は、女性にょしょうとしては漢文の学識多分に備われたと思います。一を知って百を知らるるごとく進まれて、この広元お教えいたせし甲斐ありと喜びに堪えません」
「まあ、そのように仰せられて・・・」
佑子ははじらってうろたえる。
「このことはすでに世尊寺殿まで申し上げてありまするが、姫の学業もひとまずここまで成就じょうじゅされしを見届けて安堵の上、このたび太政官庁少納言局に仕官いたすと心さだめました・・・」
聞くと佑子の美しい顔がぱっと明るくなって、
「よきところに御仕官、めでたき限りに存じます。やがては高い官職につかれませと祈っておりました」
「そのお言葉かたじけないが、あまりに高い職とは申されませぬ権少外記ごんのしょうげき (書記官補)ながら、いつぞやの図書寮の写字に追われる役よりはまずよろしいと・・・」
広元はひろ苦く笑うと、汐戸が、
「やがては少外記へ、それからは御年功にて五位の外記大夫(書記官長)に広元さまなら御昇進はまたたく間でございましょう」
うら若い時から平清盛家に仕えて、いっつしか様々の官職への知識がある。
「この汐戸どのより戴く辞令のようにぜひ参りたいものでござるの」
と、広元は笑う。
「汐戸、典さまをここへお呼びして、広元さま御仕官のお祝いを申し上げにと・・・」
汐戸が典子の居間に行くと、彼女はこの頃老衰の菊丸を安良井と共にいたわって余念もない。
「広元さまへ御挨拶にと姉君仰せでございます」
汐戸の口上にも典子は動こうともせず、
「おや、ゆかぬ。お邪魔になるゆえ」
と、はっきり言って首を振る。
「えっ」
汐戸は胸がどきんとする。さては ── 最近は漢文の学習の時刻にもふっつりと典姫が姿を見せなかったと思い当たる。
「さような戯れ言を仰せられまするな。今日は広元さま御仕官のお祝いを申し上げに典姫もお越しあそばせ」
「広元さま、どこぞのお役所へお勤めになるの?」
典子はさっと立ち上がると足を急がせて姉の居間に向かった。
「広元さま。御仕官はめでたきことながら、それではもう姉上のもとに御教授においでになれませぬの」
典子が広元の顔をみるなり、せき込んで言う。
「もう姉君の漢文習得はひちまず業を終えられたと思います」
「それで、もう西八条へいらっしゃらないの?」
「いや、定めの上日じょうじつ(出勤日)の間の休息日もあれど、すでに姫への御教授に用なき身が、いわれもなく参上は北の方へもはばかりあれば・・・」
「いいえ母上が広元さまのおいでをどうしておとがめなされましょう。典子、母上へ伺いにまいります。汐戸も広元さまがまた必ずおいでのようにお願いして、姉上のために!」
「あらッ」・・・と声にならない声で佑子のおもてはさっと紅を刷き、うちぎの袖でそれを隠す・・・。
汐戸は複雑な感動に打たれて身じろきも出来ぬ。
母の了解を得たと足を急がせて渡戸へ向かう典子のあとを乳母の安良井が追うと、汐戸もこのやんちゃな末の姫を案じて北の対屋へと急ぐ・・・。
2020/11/11
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