~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
青 春 の 幻 (二)
みな去った後に、佑子と広元だけが残された。対屋の広い板敷に置かれた赤銅の大きな暖房器から湯気が立ちこもって、冬のさなかも春めくように暖かい几帳のめぐらす姫の居室は、不断に焚き込めた空炷からだきの匂いがこもる。
しばらく二人は言葉なく沈黙しじまの中に相対していた。息苦しい沈黙に堪えかねてか、佑子が花のうてなのうなだれるようにうつむいたその背に流れる黒髪の上に、広元の熱い息を込めた言葉が降りそそぐ・・・。
「祐姫、この広元はすまじきものは宮仕えと心さだめて、生涯を気ままな学究の徒として送るをむしろ本望とのその志を曲げて、このたびの仕官に踏み切ったは、このままでは入道大相国と北の方に頼もしき男と認めて戴けぬを怖れたあまり、この上は世の常の男の如く、立身出世ひとすじに励み、名をあげ高位の職に昇って、平家の美しき姫を得たいと思いつめました・・・」
広元は一気に言い立て、ここで思いあまって絶句した。
「佑子は無位無官のままにても、ただ学問にひたむきの今の広元さまに女の一生を賭けたいと思うておりました・・・それをおわかりになりませなんだか・・・」
凛と顔を上げて広元を女のかぎりの情を含んだ双眸に見詰めた、佑子のよどみない言葉は美しい黄金の矢となって広元のしんの臓を射ぬいた。
── 広元はわなわなと身がふるえて嬉しさあまってかなしいばかりだった。
彼はおののく手で佑子の文机の上の硯のそばの筆と紙をとった。とうてい言葉では尽くし得ぬこの狂喜する思いを文字に伝えようと、
    吾者毛也 安見児得有 皆人乃・・・
としたためる文字を佑子は見てすぐにさとった。それは「万葉集」の藤原鎌足作の一首。
吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり
鎌足がみな人々の思いを懸ける絶世の美女采女うねめ(宮廷貢進の美女)を獲得し、狂喜して誇った秀句だった。
広元は今この歌をかりてわが胸を吐露するより手段がなかった。
佑子が広元の手にした筆をそっと取ると、その広元の強い筆蹟の文字の隣に優しくたおやかな文字をならべた。
敷島の やまとの国に 人二人 ありとしはば 何かなげかむ
君と二人この天地あめつちに結ばれてあれば、この世は何の憂苦の歎きもなく永久に愉しい・・・と佑子の心境をこの万葉の恋愛歌に托して示されて広元は、恍惚とした瞬間我を忘れて、
「祐姫!」
と叫ぶなり、いざり寄ってその手をひしと握りしめ引き寄せるまでもなく、佑子のか細い身は小袿の袖を乱して花の崩れる如く広元の胸に顔を埋めておののく・・・。
その時 ── 遠くの板敷から典子の声が凱歌のようにひびいた。
「広元さまァ、母上は御仕官後もおりおりお遊びにお越し戴くようにと仰せられました!」
姉の居間に入るまでも待ち切れず典子は報告したのである。
2020/11/11
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