~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
花 の 樹 (一)
久安三年(1147)新春、時子に妊娠の微候が見えた。それは六波羅での喜び事である。
「重盛は武士の血を受けながら神経が細いのは気になる。時子そなたはぜひとも生まれながらの益荒男ますらお振りの雄々しい和子わこを生むのじゃぞ」
清盛は妻にこうした注文をつけた。
ところが姑の房子はある日、時子に意外な言葉をかけた。
「われらの孫は重盛初め二人の和子どの、こたびは姫が欲しいところよの・・・」
それに対して、とっさの場合時子は答に窮した。女の児が欲しいと望まれても、そうした自由自在はきかぬは当然ながら ── 心にひっかかるのは「重盛初め二人の和子どの」の言葉だった。重盛の他になだあるとは?
彼女は思いあまって、侍女の阿紗伎にひそかい問うた。この老女は時子が嫁ぐずっと以前から六波羅の邸ぬ邸に仕えている。時子づきになってから、誠意をもってまめやかに身辺に立ち働く気立てを時子は信頼していた。
「いずれはお耳に入り、御承知遊ばさねばならぬ事柄でございますが ── 重盛さまは先の御正室お腹の御嫡男、そのあとにお脇腹わきばらの基盛さまがおわしますが、故あってこの御本邸にお育ちなく、家臣のもとにて乳母がお付きいたしております。と申しますのは、基盛さまお腹の方にあやまちがございましたゆえ・・・」
阿紗伎は口こもりながら語りつづける。
「そのお腹の方はこの六波羅には起き伏しなさらず、別のお棲居に置かれました。まだ先の北の方さまがおわせし頃とてその御遠慮もあってでございましょう。元は白拍子(遊女)の素性と聞きました。したがその美しいこと当時ならぶ者なしとの評判でございました。若殿もまだお若く、冬の夜寒のきびしい日もその女性にょしょうのもとへ馬でお通いになりました。冬は乗馬には裏毛のあたたかな革沓かわくつを召されまする、そのお沓取くつとりの役は古くから仕える老人の下僕がいつも勤めます・・・」
ここから阿紗伎は説き起こして話の中心に入って行くのだった。
── 清盛が女の家へ着くと玄関にはすでに彼を迎える為に短檠たんけい(燭台)が置かれてある。その灯明りの下でひざまずいて主人の革沓を脱がす老下僕の、侍烏帽子頂頭掛ちょうずかけ(左右を緒で結び付けている)、薄い小袖に萌黄の布、素足に草鞋わらじの姿はいかにも寒々としていた。
浮々と女のもとへ通う主人のおかげで、この老僕がその薄着で寒夜にさらされるのを思うと清盛は捨てて置けなかった。
奥へ入って女の顔を見るなり彼は言う。
「供の沓取の爺に真綿の厚く入った胴着と小袖を二、三枚つくってやってくれ、わしがつかわすよりは、そなたのもとへ通うあるじゆえに寒い思いをするのを察して、そなたの手から貰えば有難く喜ぼう。よいか、頼んだぞ」
そして清盛は真綿も小袖布地も山ほど買える宋銭の入った小袋ごと女に与えた。物々交換だった前時代から、宋との貿易を契機として宋銭が多量に輸入されて、そのまま日本の通貨として流通が展開され、地方荘園からの貢租にも砂金や銭納もあり土地売買も銭によってなされた時勢に、この女は宋銭貨幣に宝石を集めるような執着を見せて、その貨幣の穴に赤い紐を通しつらねて朱塗の唐櫃からびつに貯えるために、清盛にいつもねだる。それゆえ女のもとに通うたびに時々与えていた。
「これは沓取の爺への小袖代に使えよ」
と念を押して、その夜は幼い基盛の寝顔を覗いただけで、あの薄着の老僕を寒夜待たせるに忍びず早々に立ち帰った。
それから四、五日して清盛が女のもとへ通っての帰りに「沓取の爺の小袖が出来たか」と念を押すと、「はい、今宵つかわします」とさりげなく答えた。
帰館した清盛の革沓を脱がす老僕に「新しい小袖はあたたかかろう」と声をかけると、老僕はとまどって答をしぶるのを怪しんだ清盛が、出迎えの侍女に「灯を近う」と差し出させて足下にうずくまる老僕の姿を見ると、綿などろくに入っているとも思えぬ古小袖、京の七条付近の露店市場ではこうした古布子ぬのこが貧民相手にひさがれている
── 女は清盛がそのために与えた銭を惜しんでみなわが手に納めて、形ばかりの古小袖を与えたのか・・・。
女のもとへふっつりと清盛は訪れを絶った。そして基盛は六波羅の家臣の邸へ引き取られて育てられ、今日に及んでいる・・・と阿紗伎の話はここで終わった。が ── 時子は強い感動に胸をゆすぶられた。
阿紗伎がはじめ「基盛さまのお腹の方にあやまちがございましたゆえに」と言い出した瞬間は、もしや、清盛の眼を盗んで情夫とひそかに通じていたのかなどとありふれた推理をしていたのだが ── 事実は大きな違いえあった。
その女ときっぱり離れた原因は、老僕の小袖一つのことだった。もしこれが世の常の好色の男だったら、そのくらいの女の欠点は笑って見すごしても、自分の快楽のうつわの美女は手離さぬであろう。けれどもわが良人はその女がおのように美しい容色の魅力を持つとも、精神面の醜さをいったん知ると二度と振り返らぬいさぎよさを知って感動したのだった。
それと同時に、その心つたなき母ゆえに日陰の子のような位置にうとんじられる基盛があわれだった。やがて時機を見てその基盛をも重盛と同じように第二の母として及ぶかぎりのことを尽くしたいと願った。
そう考えるとすでに二人の和子が実在するからには ── 姑が“姫”をと希望するのも無理ならぬ気がして、もし叶うことならそうあって欲しいとひそかに思った。
2020/10/01
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