~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
慈 母 観 音 (一)
仁平三年(1153)正月、その十五日に六波羅の館では、毎年の吉例として十五日粥の行事があった。これは宮中行事にもんったが、元は武家や民間の風習だったのが宮廷にも取り入れられたのだった。
その日は朝、忠盛夫妻と嫡男清盛夫妻のほか異腹の弟の経盛、頼盛、忠度そして清盛嫡子の重盛、基盛、宗盛、去年生れたばかりの知盛と異腹の昌子も乳母に抱かれて一座につらなり、家紋揚羽蝶の金蒔絵の椀、男は黒塗、女は朱塗で六波羅風の小豆と乾栗を容れたかゆをすする。
今年は知盛の為に小さい黒椀、第一女昌子のために可愛ゆい朱塗の椀が用意されて乳母の手に渡された。
その粥の行事にはまず祝い酒が出され、声のよい侍女たちが日頃習い覚えた今様を歌い舞うのだった。
当時の朝廷では崇徳上皇と同腹の雅仁まさひと親王が御齢十五の頃から今様の歌謡に耽溺たんできされて、名人乙前おとまえから習得されている。その影響で六波羅にも今様ぶりが入ったのだった。
そよ、君が代は千代にひとたびゐるちりの白雲かかる山となるまで
十五日粥のめでたき御祝儀に選ばれた歌謡である。
忠盛は上座の中央に嫡男清盛とならんでわが子、孫たちに囲まれて上機嫌で盃を手にした。
それが忠盛五十八年の生涯の最後のうたげであった。
その夜半、父の突然の急変を知らされて清盛夫妻と一門が駆け付けた時、父忠盛の呼吸はとまっていた。
妻の房子は「大殿、大殿」と半狂乱で良人の身体をゆすぶり歎きつつ、
「早う、早う、加持祈祷を頼めよ。頼めよ」
と、家臣たちに命じていた。それを清盛は制して言った。
「それより先に医師くすしを迎えよ。典薬頭てんやくのかみ丹波邸へも御配慮を願いに誰ぞ参れ」
と命じた。天元五年(982)に「医心方いしんぼう」三十巻を編んだ丹波康頼の子孫はいまも代々典薬頭施薬院司を勤めていた。
大殿には怨霊おんりょういたのじゃ、海賊追討使でおわせし頃討ちほろぼされし海賊どもが、もののけとなったのじゃ、行者たちを集めて陀羅尼だらにを唱えさせて仏力ぶつりきの加護を祈り憑きものを退散させねばなりませぬぞ」
房子は女性にありがちな迷信を抱いている。そうしたもの一切を認めない清盛は苦り切って医師たちの到着を待った。
ようやく駆けつけた丹波兼康が現れたが、もう治療の手段はなかった。
病因は“風病”── 清盛の妻時子の母もそれで倒れたと同じに、この脳卒中は(現代でも日本人の死因の第一位、三分間に一人は死んでいる計算という)当時からまったくもののけの呪いのように突然に人の命を奪った。
忠盛の五十八年の生涯はこうして突然に打ち切られたが、その一生は充実していた。十二世紀前半に伊勢平氏興隆の礎石を築き、富は巨万を積み、次代に“清盛”という歴史に残る英雄に座席を与えて、心おきなく世を去ったのだった。その清盛はその年三十六歳の男盛りの初春を迎えたばかりだった。
2020/10/02
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