~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
慈 母 観 音 (二)
六波羅の館に弔問の客は群がり集まった。
平忠正も嫡子長盛を同伴して駆け付けた。忠正は亡き忠盛の異母弟だった。兄の栄達は目ざましかったが、その弟は宮廷右馬寮うめりょうの右馬助ぐらいで止まっている。息子の長盛は上皇御所に仕える武士だが、従兄弟の清盛とは比べものにならない。
互いの父同士と息子同士の立身出世の大きな落差が、おのずとこの血族の間に心通わぬ溝をつくっていた。それゆえに平常は顔を合わせることも少なかった。
けれども、さすがにこの場合は忠正は胡人のただ一人の弟として、そして清盛たちの叔父として威容を示して現れた。
沈香じんこう抹香まっこうを惜しみなく遺骸のまわりに詰めた忠盛のひつぎを安置した広間での一族一門、重臣たちの連なる通夜の席上で、忠正は甥の清盛に向かって、叔父としての威厳を保つように言い放った。
「刑部卿(忠盛)はいかにも運勢強き人であったの」
父のすぐれた明敏な頭脳の働きを、単に運がよかったで表現する叔父のこの言葉が、清盛には気に障った。故人を惜しむ哀悼の辞としては礼を失していると腹立たしかった。兄の栄達を妬んでその死をむしろ快げに思うているかのようだった。
「父忠盛は運を己の力でつくりあげたと思われまする」
父の棺の前では、清盛もおだやかに制御した言いまわしだった。
同じ席に列していた妻の時子は、忠正の発言が良人を刺激したと察して、これからどうなるかと案じていただけに、思いのほかに冷静に受け流した良人の態度にホッとした。
ところが忠正はそれに抗弁したのだった。
「いや運というものは人間に力ではどうにもならぬものでな。その証拠にはこの忠正などはいかに勤めても焦っても、いまだにその運を掴むことが叶わぬわ」
この叔父の執拗な運命論を清盛は今度は黙殺して冷然としていた。と思いがけなく重盛が忠正に向かって言った。
「叔父上の仰せの通り、限りある人間の力で運命を左右出来ませぬが、孟子もうしは弟子万章ばんしょうの『しゅんの天下をたもつは、たれかこれを与えしや』に答えて曰有いわく『天これを与えたり』と ── まさに運命は天の与うるもの、叔父上にもやがて天これを与える日のあれかしと願いまする」
と、重盛が大真面目で述べると、単純な忠正は相好くずして満足の表情を露骨に見せ、
「いかにも、いかにも。身共みども天これを与うるを待つばかりじゃ。そなたは祖父や父とは品ちがい、心優しき者よの」
と、子どものように喜びつつ、弟に冷淡だった兄の忠盛や甥の清盛に当てこすりを忘れぬ彼だった。
そも光景を眺めた時子は、わが良人は対人的には憎まれ者の政治家となり、嫡男重盛は知識人としてめられ者になるという運命をそれこそ天から授かっている気がした。
忠盛の形見分けで、平家伝来の名刀烏丸は清盛、鳥羽上皇から下賜の名笛小枝さえだは異母弟経盛に、後妻房子の実子頼盛には故人の由緒ある鎧一領が贈られた。
忠盛未亡人の房子は実子の頼盛の館に移ることになった。頼盛は従五位常陸介ひたちのすけで、六波羅敷地の池のほとりに壮大な居館を与えられていた。その屋敷を池殿と称したので、髪を切って尼姿の房子は池の禅尼と呼ばれた。
頼盛の異母兄の従五位播磨守教盛の邸は六波羅の総門の傍にあったので、門脇かどわき殿と称される。清盛の嫡子重盛も十六歳で従五位中務少輔、六波羅の東北、山科に通う道の南北に渡る小松谷に広い邸館を持ち、小松殿と称された。
さて・・・・清盛北の方時子にとっては、姑が池殿に移られたことは、同じ六波羅内でも距離が生じて開放感があった。
2020/10/03
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