~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
慈 母 観 音 (三)
清盛居館の庭には忠盛をまつる塔が建立されて清盛夫妻と子孫の礼拝に備えられた。
── 六波羅はその時から清盛時代を迎えた。その翌年十月に年号は“久寿”と改元された。
久寿二年(1155)七月二十三日近衛天皇十七歳で崩御、まだ皇子もおわさぬにより翌日兄君の雅仁親王二十九歳で帝位をつがれた。後白河天皇である。
近衛天皇を鳥羽楽寿院南陵(当時の山城紀伊郡竹田村)に葬る御大葬の列に清盛、重盛も従った日、六波羅の館でも時子は香を焚き家臣や侍女たちに礼拝させて良人の帰りを待った。
こうした場合、北の方に必ず付き添ってお話し相手をするのは忠実な侍女がしら阿紗伎である。
「美福門院さまのおん歎きはいかばかりか・・・まもとにおいたわしい」
時子は、近衛帝の生母美福門院の心中をおしはかる。
「天下無双の麗人と噂に高い皇后さまもさぞかし・・・」
近衛帝は十二歳で左大臣藤原頼長の養女多子まさるを皇后に迎えられた。多子は美女の誉れ高かったのである。
「このたびの御不孝も・・・」
と、阿紗伎はあたりを見まわすようにして声を低めて、
「新院(崇徳上皇)の御呪詛じゅそのゆえなどと、あらぬ噂さえ申す者がございます」
「えっ、こともあろうに、そのような怖ろしい噂が・・・」
時子は肌寒い思いに愕然がくぜんとした。だがそうした恐ろしさ流言蜚語ひごのひそかに流れる原因にも思い当たった。
「新院も御不幸な御運と思われます」
時子もつぶやかずには居られぬ。
たしかに、崇徳上皇は不運の帝だった。父の鳥羽天皇の皇太子顕仁あきひと親王として生れ、のち崇徳天皇となられても鳥羽天皇からは我が子として見られず、冷たい眼を向けられた。それは顕仁親王の生母待賢門院璋子たまこの貞操の疑惑からだった。
そのため、鳥羽帝はその後入内じゅだいの藤原得子(美福門院)を寵愛されて、得子の生んだ体仁なりひと親王を帝位につかせたく、崇徳天皇に譲位を強いられた。まだ二十三歳の崇徳帝は心ならずも三歳の幼弟(近衛帝)に譲位されたが、わが皇子に譲位した場合とちがって新院となっても院政(太上天皇による政務決裁)を行われる資格はないのだった。崇徳上皇の怨みはさぞかし ── と時子は同情も起きる。
そして、朝廷の中で皇位を争う陰湿な救いのない冷戦が行われるのを知って、時子は暗然とした──。
「このたびの雅仁親王の御即位も、思いがけぬことよと六波羅の侍たちもみな申して居ります・・・北の方にはいかが思召されます」
阿紗伎はあたりに人の居ないのを幸いに、皇室を中心にさまざまの世上の取沙汰について北の方の意見を知りたかったのは、北の方が良人の清盛から世上に伝わらぬ真相を聞いていられると思うからでもある。
「新院の第一皇子が御即位かと思われたに、今様の歌謡にのみお心傾けておわした雅仁親王が帝位御継承とは、たとえ新院と御同腹の弟君とは申せ、新院はお心平らかならずと拝察されるが当然であろうの、さりながらこれらはわれらの女人の考え・・・殿はなんとお思いか、男の世界には、“政治”と申すわれらおなごの計り知られぬものがあるゆえの」
「いかにも、あようでございましょうとも」
阿紗伎はうなずいて口をつぐんだ。
時子は男だけの持つ“政治”という複雑怪奇な強靭な思考には、女性の感傷や同情心の介入が一切許されぬを、清盛の妻となって以来身に沁みて知っていた。
鳥羽法皇と崇徳上皇の父子の仲睦まじからぬは知られているが、亡き忠盛も清盛もこの双方の院にひとしく奉仕の姿勢を示すを怠らなかった。
── にわかに六波羅の門のあたりざわめく気配に時子も阿紗伎も殿のお帰りと知った。
清盛は御大葬に供奉の武士の礼服らいふくに儀式用の太刀、弓箭きゅうせんを帯びた姿で、出迎えの妻に、
「この夜更けまで待つことはない、早う臥床ふしどに入るがよい、そなたはただの身体ではない、阿紗伎もそれに気をくばらぬか」
阿紗伎はお詫びに平伏した。北の方は懐妊の身だった。だが出産予定日は明年の二月上旬だった。
「いつもながら、北の方への殿のなみなみならぬ御配慮、かたじけのう存じまする」
阿紗伎が微笑ほほえんで言うと、時子は破顔一笑「それも殿の政治力よな」と言いたいのを我慢した。
清盛が別ので近習の若侍たちによって礼服を脱いでいる時、時子はひそかに阿紗伎に微笑んで囁いた。
「殿はあのようにいたわって下さるが、油断は出来ぬの、いつぞやのようにこの身が和子を生むと、いつの間にかどこかで殿の姫が設けられているかも知れぬ・・・」
「もし、そんなことがありそうなら、阿紗伎こんどは前もって知らせてたもれよ。必ず」
もの柔らかに北の方に一本打たれた形で阿紗伎は、
「ハッ、必ず」
と緊張させられる。
2020/10/03
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