~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
凩 (一)
その年(保元二年)の初冬、清盛方の方は四度目の出産で初めて姫が誕生した。
「おめでとうございます。それ御覧ごろうじませ。北の方は男腹などとはめっそうもない、このようにみごとに姫の御誕生ではございませぬか」
阿紗伎は自分の手柄のようば顔をした。
大望の正妻からの姫を得て代満悦だった清盛は、誕生七夜の祝いに“徳子”と名づけた。
昌子も盛子も脇腹で生誕後に、初めて六波羅へ連れて来られたが、六波羅居館の産室で産声をあげた姫は、この清盛の第三女が初めてだった。従って七夜の祝いも九夜の宴も盛んに行われ、同族、家臣からの祝い物も山をなした。
その祝言つづきが終わってやっと静かになって、清盛は時子の産後の休養のしとねを訪れた。
「さてこれで姫たちも三人となったが、やがてはそれぞれよきところに嫁がせねばならぬの」
そう妻に言う清盛は、その娘たちを無駄には人にはつかわさぬ。必ず平家の足場をさらに強固にかためる美しきくさびと使いたかった。
その良人の望みは、誰よりも妻の時子が推察していた。
「女の一生の禍福は連れ添う良人によること、うかうかと姫は生めませぬのう」
それは今の時子の実感だった。
「なに案ずるより生むが易しよ。昌子の縁談はもう決めている」
清盛は事も無げに言った。
「えっ、まだやっと六歳ではございませぬか、ものごころもつかぬうちに・・・」
早婚の風習のその時代ながら、清盛の手まわしの早さに時子は呆れた。
「いや、婚約だけだ、つまり許嫁いいなずけ にするのだ。しかもよい相手だ、信西入道の息子の成範しげのりだ。父に似て頭のよいことはたのもしい。入道もこの縁組を望んでいる」
父親同士の口約束はもう出来ているらしい。いまさら反対する大きな理由もないのに、時子は漠然と気が進まぬ。というのは、六波羅へ時たま訪れる信西入道に、時に礼儀的な挨拶を交わすことがある。いいかにも頭脳明晰な政治家らしいが、どこか冷酷な狭量な感じを時子は受けている。それは昨年の保元の乱の敗者への処置に、彼が清盛に叔父一族を斬らせ、義朝に父と弟たちを斬れと命令した、あの怖ろしい印象からである・・・・。
「まあ、上から順に、婚家を今から定めておくのもよかろう」
と清盛は立ち上がると、隣室の屏風の中に乳母に守られて寝入っている徳子の小さい顔をのぞき込んで言った。
「生まれたての顔というのは、まるで見当がつかんが、早う美しくなって見せいよ」
そのまるで見当もつかぬ顔の赤ン坊の母の時子は笑いを立てた。
── その赤子の目鼻立ちもやがてははっきりして来て、
「まあ十人並みの器量よ」
と父の清盛が言う頃は、翌年を迎えていた。
しかもその春、またも時子は妊娠した。
「年子の癖がついたのであろうか、これでは絶え間なくいつも身重で暮らすようで辛気しんきな」
と彼女が肩をひそめると、
「いえ、いえ、、六波羅のお栄につれ、殿と北の方のお仲のよいお睦まじきめでたさゆえでございます」
阿紗伎がいたり顔で言うと、
「そなたの口には乗らぬぞえ」
「そのように仰せられず、殿とお睦まじきは何よりの北の方のお仕合せとは思召されませぬか、
どこにも定まったしょうなどは一人も置かれず、よその殿御たちとは大違いの六波羅殿と、あちこちの評判でございますに」
清盛はたとえよそのおんなとの交渉があっても、それはいっときのものであったし、むしろ恐妻の傾向があったのも、時子の柔らかにしっとりした強靭な賢い性格ゆえであったろう。
その賢い妻と相和する清盛は、その年の八月に“太宰大弐だざいのだいに”を任命された。これは九州、壱岐、対馬を管轄し、外冦、外交をつかさどる大宰府の次官という高職である。それの比べて義朝はまだ左馬頭さまのかみに止まる。時子はそれを知って男の生存競争の非情の世界は、とうてい女の感傷では割り切れぬものとわかる。
しかもその同じ八月に、後白河天皇はわが皇子に譲位され十六歳の二条天皇が出現される。
「御在位わずか四年足らずで、御壮年の天皇が早くも御譲位とは、いかがな事でございましょうか」
時子はいぶかしがって良人に問う。
「さてさて端倪たんげいすべからざる上皇となられようぞ、あの“今様”の歌謡に耽溺された親王が思いがけず帝位につかれると、たちまち政治という魔法のおもしろさを覚られた。こんどは上皇になられて少年帝の背後で振るわれる院政に興じられるであろうの」
その良人の観察通りとすれば、やがて後白河上皇とわが良人の間には、避けがたい摩擦が生じるのではないかと・・・時子が漠然とした恐怖を覚えたのは、良人の清盛もまた“睥睨すべからざる人物”だと、彼女は日頃思っているからだった。
── その年の秋深む頃、かねて改築中の皇居が落成した。その建築は富裕な権臣たちの寄進をも募ったが、清盛は仁寿殿じじゅうでんの造営を引き受けて献納した。その仁寿殿は御所正面の左近桜、右近橘を前の、正殿紫宸殿のうしろの内宴用の殿舎である。
清盛からはさらにもう一つの献上物があった。それは宮中の陰陽寮おんようりょうに置く“漏刻ろうこく”だった。清盛は大宰府で宋船渡来のそれを見て、同じ精巧な品を造らせた。壺に入れた水が漏れ落ちるに従って、壺中の矢の時刻の目盛りを示すように装置された古代の水時計だった。陰陽博士がこの時計によって、時計台の鐘鼓を鳴らして宮中に時刻を知らせる重要品である。
鐘鼓の鳴らし方は一日を十二刻とし午前零時に九つ鳴らし、それから一刻(現在の約二時間)を経過するごとに八ッ、七ッ、六ッ、五ッ、四ッを打ち、正午に再び九ッに戻る、十二刻に中国の暦法を真似て、子の刻、丑の刻と呼ぶことも行われたが、貴族たちは文学風に日暮れから夜明けまでを五等分し初更(申夜)二更(乙夜)三更(丙夜)四更(丁夜)と呼んだ。
このように皇居の設備がととのうと、二条天皇は仮御所東三条殿から移られた。そして後白河上皇がその三条殿を院の御所とされると、清盛は種々の献上品を運ばせた。二条天皇にも、かつ上皇にも、清盛はかく奉仕を怠らなかった。
── その冬に時子はまたもや姫の母となった。
(これは、これは、北の方も殿にきつう燃えられたと思われますの)と阿紗伎は陰で独り言をひそかにもらしては微笑んだ。
その姫は寛子ひろこと名づけられた。清盛の第四女である。
2020/10/07
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