~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
凩 (二)
翌年保元四年は新帝二条天皇の即位に伴って“平治”と改元された。
その頃から朝廷内の雰囲気が、さまざまの噂となって外部にも流れ出した。六波羅の館でも侍たちが論じあっている。その情報を阿紗伎は北の方へ通じる。
いん(上皇)当今とうぎん(天皇)の御仲お睦まじくあらせられぬとのお噂が、もっぱらでございます」
「院はまことの御父君、当今はいまだ御年少におわすのに、なぜそのような・・・やはり御政権がどひらにあるかとの御争いであろうの」
「それに従って天皇御親政派と、院政派と、朝臣が二つの割れて睨み合っていられますそうな」
「院政派は言わずと知れた信西入道であろう」
上皇の乳母紀伊局を妻に持つ彼は、院政を保たねばならぬはずと時子は判断する。
「その入道殿とたがいに権を争うのが、右衛門督うえもんのかみ藤原信頼卿とのことでございます。卿は院の親王さまの頃から御寵童だったそうで、ただいまも院からお眼をかけられるのが、入道殿のお気に召さぬとやら・・・卿もそのため天皇御親政側に従われるとか・・・」
阿紗伎が笑いを含んで言うのは、後白河上皇は女色も男色も両刀使い、などと陰の声があったからである。知識とか才智を誇る性質狷介けんかいな信西が、その信頼などを毛嫌いするのは当然と時子にもおもえる。
「して、あの堀川やかたこうの殿(義朝)はどちら側に付かれるのであろう」
左馬頭義朝は略して頭の殿と呼ばれていた。
朝廷警固の武士団として“源平”ならび立ちながら、保元の乱以来父も弟たちも失って、いま孤独の陽の当たらぬ立場の頭の殿義朝である。
「さあ、それが頭の殿は信西入道にはつもる怨恨があられ、ことに近頃は信頼卿に近付いて天皇親政こそ国家の正道と言われますそうな」
これが阿紗伎の耳に入った情報のすべてだった。義朝が信西を憎悪するのも無理ではない。
保元の乱で軍功があっても信西の命令で父と弟たちを斬らせられ、そして褒賞は余りに薄かった。信西はいまひたすら清盛に接近している。── 義朝の寂莫心境を時子は思いやる。
それのしても(わが殿は院政か御親政かそのいずれを願われるのであろう。上皇は油断のならぬ御方と、いつぞや良人のもらした言葉から推察すればお若い天皇おん自らの新鮮な御政治をのぞむのではなかろうか?)だが時子は清盛に露骨に問いただすのを抑えた。それはいまにわかる。
そして出来る事なら義朝と共に源平手を組んで、天皇親政を実現させて欲しいと彼女は願った。
というのは ── 歌謡に打ち込まれ、男色、女色に遊び、皇位につかれるとたちまち政治を楽しい玩具のように好かれ、責任ある窮屈な天皇の生活様式からは脱出されてお気軽な上皇となられても、政治の実権だけはお手離しにならず院政を握られて若い天皇を飾り物になさる・・・時子は後白河上皇の輪郭をこう描き上げると、信西入道が嫌いなように、おそれ多いが上皇も敬遠すべき御方であった。時子は六波羅の生活で、いつかこうした“自分で考える”女に成長していた。
彼女の精神が強靭に形成されたように、その女体も三十二歳の女の成熟の頂に達したのか、なんとその年にもまた懐妊した。産月は来年正月早々と、六波羅一族の健康管理を清盛が委託している丹波兼康の診断だった。
2020/10/07
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