~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
禍 福 の 日 々 (一)
義朝の遺児頼朝が、捕えられて六波羅に連れて来られたのを時子が知ったのは阿紗伎からだった。二月の九日だった。
こうの殿と尾張へ落ちられる途中、馬上でうつらうつら眠られるうちに父君に遅れてそのままさまようていられたのを、池殿の家人けにん弥兵衛宗清殿に見付け出されたと申します」
「で、その御処置はなんとなされるのであろうか」
悲惨な最期を遂げた義朝の遺児頼朝は、わが子宗盛と同じ年齢だけに時子は複雑な感情を抱かせられる。
「弥兵衛宗清殿がまず池殿へ連れ行かれると、禅尼さまが御覧ごろうじられて、亡き家盛におもかげがあまりに似通うてあわれはひとしお・・・と歎かれて、殿へお命乞いをなされ、小松の若殿もそれに御助言とのことでございます。事の定まりますまで宗清殿が手許に預かられれるとか・・・」
家盛とは、池の禅尼の若死にした子である。その亡き子に眉目が似ているという個人的な感傷に溺れる姑に時子は少し抵抗を覚え、また重盛の助言もつねに聖人意識のこの人にありそうなことと思え・・・あとはただ良人清盛がどのような決断を下すかと時子は思うのみだった。
── それから間もなく頼朝の異母兄弟三人が、六波羅に母の常磐に伴われて名乗り出た。源家の遺児の探索のきびしさに観念したからだった。末の二歳の牛若(のち義経)を抱き、両脇に上の今若、中の乙若の手を引いて打ちしおれた常磐の姿は哀艶だったと六波羅の話題を賑わした。
「さて、どのような御評定になりますやら」
奥の侍女たちが興味を持ったのは、頼朝や幼い三人の遺児よりも、義朝の愛妾二十三の美女常磐だった。
「殿の御裁断だけでは定まりませぬ。朝敵の残した子たちの事は、上皇、帝の思召しを伺わねばなりませぬ」
時子が侍女たちをいましめたように、評定は勅許を得るまでしばらく長びいた。その間は常磐母子は見張りを付けられて蟄居ちっきょしている。
そのように義朝の遺児処置の裁決がのびたのは、朝廷ではほかの事件が原因で上皇と二条帝の御親子の間に摩擦が生じたからだった。それは帝のかねての恋愛問題の紛糾だった。
こうした場合、その解決に当たれるすぐれた廷臣たちは、二度の争乱で互いに争って生命を落し、或いは遠島で、上皇も帝も手頼たよりにされる近侍をいま持たれぬので、おのずと清盛を双方で用いられる。
それゆえ清盛は上皇と帝の間に立って、この問題の解決に当たれなばならなかった。
時子は、わが良人が朝廷の政事まつりごとにあずかるのは栄誉ではあるが、そのようなかんばしからぬ事柄にかかわるのはうとましかった。
「上皇は帝の道ならぬ御恋慕をお訓し遊ばすのでございましょうね」
上皇もまた魚色家ながら、さすがに先帝の后をもういちどわが后として迎えようとされる二条帝の奔放なお考えには反対とは、すでに聞いている時子だった。
「うむ、上皇は──神武天皇このかた二代の帝の后に立たれるためしなし──とおいさめになるが、帝は『天子に父母なし』などと父君の仰せもお聞き入れなく、どうでも御執念をお通しにならねば納まるまい」
清盛のその言葉に時子は憂鬱だった。
「おいたわしいはお美しい大宮さま、どのようにお辛いお気持ちでございましょう。このたびの思いがけぬお身の上の歎かれて『先帝崩御のみぎりお跡を追うて露と消えなば、このような憂き目にあわずにすんだのに』とお泣きになったとやら世上にも伝わりますに・・・」
時子はその美しきゆえに明眸過の皇太后に涙を催すほどだった。
だがそうした同情の涙をよそに、大宮はその一月二十六日勅命によって入内となった。お迎えの牛車が来てもなかなかお乗りにはならず、ついに夜半に及んで侍女たちに助けられて乗り込まれた ── かくして、近衛帝と二条帝の二代の后として、王朝未曾有の入内であった。
2020/10/10
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