~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
禍 福 の 日 々 (二)
この出来事のために、遅れていた義朝の遺児たちへの裁決があったのは、三月に入ってからだった。それによると、頼朝は池の禅尼の助命運動の効果もあって死をまぬかれ、伊豆のひるヶ小島に遠流。妾腹の今若、乙若は醍醐だいごの寺に入れて出家、牛若は鞍馬寺の稚児とすると決まった。
それを寛大に過ぎるという反対者もあった。
「殿(教盛)は不服を仰せられたよし、三幼児はともかく、十四歳の頼朝は肝のすわりし少年、後々の禍根にならねばよいがと──」
阿紗伎は女たちの覗けぬ評定所の模様を聞き伝えて北の方にもらした。
良人の異母弟のうちで、いちばん単純素朴な典型的のもののふ振りの教経の言いそうな言葉だと時子もうなずいた。その教盛を真似るわけではないが、時子も良人に一言した。
「すでに弓矢の術を覚えし佐殿すけどの(頼朝)を、伊豆など六波羅の眼の届かぬ処へやられるのはいかがでしょう。私弟の能円法師の法勝寺へでも・・・」
「いや、伊豆の目代もくだい(代官)は平家の家人じゃ。かえって京近くに置いて、平家のときめくを眼のあたりに見れば怨めしくもあろう。よって浮世離れした辺鄙な土地に追うのじゃ。そこで父の後世を弔えよと申し渡してある」
時子は清盛にその計画があったと知った。
──ともあれ、これであらかた戦後の処理は一段落であった。
平家の軍勢の勝利に帰したこの二つの争乱、それは勃発した年号を冠らせて三年前のを保元の乱、後者を平治の乱と呼ばれた。清盛はこの二つの乱を乗り越えてから、源氏を全く窒息させて、平家は対抗馬なしに独走する武士団となり、後白河上皇も二条天皇も平家の武力と清盛を頼みにされるのだった。
だが──そこまで首尾よく漕ぎつけるには、清盛の知略と努力は容易ならぬものだった。彼は精根の限りを尽くしたのだ。
「わしも、さすがに疲れた。ちと保養がてら厳島いつくしまの参詣に出かけようかい」
清盛がそう妻の時子にもらしたのは、その春の頃だった。
「ほんとうにお疲れなされますはず、三年置きに二つの争乱、並みならぬ御心労と存じます」
「そちも共に行かぬか、熊野とちがって船で行ける、青海原の旅もたのしいものよの」
清盛はかつて安芸守に在任した折から厳島には縁故があった。海中に聳える朱塗りの大鳥居、その向こうに浮かぶ朱の社殿、神楽を舞う美しい巫女みこたち・・・彼のここ数年政争政戦に知略を尽くした身を憩うにふさわしいところだった。
「わたしもお供いたしたいのは、やまやまではございますが、典子があのようなそうがましき折の誕生ゆえか、どこかひ弱で案じられますので、乳母には任せられず・・・」
典子は性でときどきひきつけ・・・・、乳を吐いたり時子も乳母も眼が離せなかった。
清盛は戦功のあった家臣たちを慰労にと伴って安芸へ旅立ち、五日を経て帰ると、翌日彼は参議正三位しょうさんみに昇進と共に武士にして公卿の列に加わる特典を賜った。
「これひとえに厳島神社の御利生じゃ」
清盛はその社への参詣から帰っての吉報に、あの海に浮かぶが如き美しい朱の神秘な恩寵をかたく信じて以来、彼の生涯とその厳島神社への縁は深く結ばれた。
公卿に加えられたことは、武士清盛の心の底にあった憧れが実現したのだった(後世に譬えれば、かつての軍人の将官が華族の爵位を得た心境に似通うであろう)
良人が公卿の地位を与えられた恩典を手放しで喜ぶほど、時子は有難く感じられなかった。なぜなら彼女の実家は、ともかく父祖代々公卿の端くれだった。その彼女は公卿階級の人々がその高下にかかわらず、その多くは家系を誇り気位のみ高く生活能力は無く、詩歌管弦を公卿必修の技と心得て武事を執るを卑しめ、権門に媚びて廷臣への猟官運動に陰湿な手段をとり、時には人を陥れ、或いは寝返りの保身の術にひたすらな卑屈な心情・・・こうしたいわゆる長袖流の生き方を知る時子には、いわば天皇制下の寄生虫めいた公卿の仲間入りを良人がするより、武家の頭領としてだけ毅然として生き抜いて欲しかったが・・・。
けれども、良人が新興貴族に昇格したのを武門の誉れと、無邪気な喜悦に浸るのを見れば何も言えない。
2020/10/10
Next