~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
禍 福 の 日 々 (三)
── この新公卿平家に、思いがけない凶事が降って湧いたのはその真夏のある日だった。
その日──次男の基盛が好きな乗馬で若い家臣五、六人と遠乗りをして、炎天下の宇治川へさしかかると、数日の雨続きのあとの水勢の烈しい流れを眺めて──川風に吹かれて水しぶきをあげ、みごとに向こう岸まで馬で乗り切る愉快を味わう誘惑に駆られた。
その川幅の中央まで巧みに馬をあやつったが、雨後の水かさ増した激流で川上から押し流された岩のような石が幾つか川底に重なっていたのに馬の前脚がつまずいて転倒し、馬上の基盛は馬もろとも水中に没してしまった。
供の家臣たちが馬上から川に飛び込んだが救助の力及ばず、家臣の三人も溺死した。
保元の乱で初陣の若武者、平治の乱にも功名手柄で大和守を任命の大夫判官基盛は、宇治川の心なき川水に愛馬もろとも呑まれて二十一年未満の若い生命を終わった。
「母上、宇治川をみごとに乗り切りましたぞ」
と自慢して告げたかったであろうにと、時子は胸がふさがる。実母に生き別れの日陰の身で育つ不幸の少年を時子があわれんで進んで引き取って以来「母上、母上」と甘えた少年の日からその日まで、時子はわが腹を痛めたような情が移っていたのだった。
「二度の出陣にも武運強かりし身を、血気にはやって宇治川ごとき川一つに阻まれて失せるとは腑甲斐なきやつ、その共をした近習どもまでみすみす殺すとは不埒ふらちなやつ・・・」
清盛は悲痛な怒りをさえ見せたが、わが子の死を傷むより、道連れにさせられた三人の六波羅侍の主従の絆の強さを認めるのを忘れぬ清盛の態度に、老臣筑後守家貞以下が泣いた。清盛はいつもそうした態度を忘れぬ頭領だった。
──基盛とさながら殉死の形の近習三人の為の供養は、六波羅で盛大に行われた。基盛の不慮の死以来、六波羅に来ていた平忠時が、その法事が終わってやっと落ち着くと、姉の居室を訪れた。今まではこの騒ぎで姉弟ともゆっくり話を交わすいとまもなかったのだった。
「姉上も生さぬ仲をよくもあれほど尽くされたからには基盛も短い一生ながら仕合せだったと皆申して居りますぞ」
と姉を慰めて、
「ところで、妹滋子を基盛の室にといつぞや義兄あにから内意がありましたが・・・」
清盛はいつの間にか時忠に洩らしていた居たのだ。
「わが身内の者を押し付けるようながら、滋子は美しく賢いゆえ、殿の仰せ通り基盛にやがてはと思うておりましたのに──」
「残念ながらその儀は致し方なしとして、じつはかねてより上西門院の女房に仕えぬかと思召しを伺ったこともあり、この際滋子に出仕させることにいたします」
上西門院とは後白河上皇の姉君だった。
「おう、それはなにより、父上も老いられて御病体、滋子のことも案じられましょうから、それで御安堵なさろう」
父の時信も若い後妻を失って以来、にわかに老衰、先年刑部卿の職も致仕ちじ(退職)して家に籠っているが、幸い義兄清盛のひき・・で時忠も院の蔵人くろうどから右少弁(太政官庁の官務)となりすでに妻子もあり、清盛が一家の後見役として生活にはなんの不自由もない。
2020/10/11
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