~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
対 屋 の 姫 た ち (三)
西八条邸建築に着手したその翌年(応保二年)の早春に、池の禅尼がひと月近く病床に悩んだ。
時子は池殿に通って看病に手を尽くした。たべものが咽喉を通らぬ容態は食道癌であったろうか。
やがて禅尼は枯木のようになって逝った。
時子の生活から嫁と姑の関係が消えた。
亡き姑の一周忌をすませて、新築落成の別邸に彼女と娘たちの移ったのは“長寛”と改元の年の晩春だった。
清盛はその頃、大輪田のとまり(兵庫港)を宋貿易船航路の本拠地にとその築港の難工事に没頭して、そのために滞在の摂津福原の別荘にあって留守勝ちだった。
その別邸は、北は現在の京都駅前東西の通り、南は八条通、東は大宮通、西は坊城小路、南北東西四方三、四町の規模と推定される。そこにぜいを尽くした寝殿造りが建築されたのだった。
寝殿とは寝所の意味ではなく、これは中国語で正殿或いは主屋である。そこを中心に東に東対屋たいや、西に西対屋、北に北対屋があり、それぞれ渡殿わたどの(廊下)でつながれる。
中央の最も広い寝殿は宴会や行事の場に使われ、主人(清盛)の居間もある。東西の対屋は家族が棲む、五人の娘はこの東西の対屋に居間を持つ。北の対屋は夫人の起き臥しするところで、高貴の夫人を“北の方”と称する名称はそれゆえであった。
北の対のひさしの外側の一段低くなった簀子すのこ(ぬれ縁)に面した壺前栽つぼせんざい(中庭)に、蓬が、石や細い流れを配置して、さながら貴重な草木のように植え込んであったのは、良人の清盛が妻への心づくしだった。これは西八条の“よもぎつぼ”と称された。
東と西の対屋(略して対とも言う)に分かれ棲む娘五人は“対屋におわす姫君”と呼ばれた。
東の対屋には昌子と盛子、徳子の、長女、次女、三女の三人、西の対屋には一つちがいの寛子と典子の二人が置かれた。けれども姉妹たちは同じ対屋のなかとはいえ、雑居ではない。六波羅だいでも乳母と侍女がめいめい付いて部屋が別だったように、この東西の対屋はいずれも七間四方で約五十坪、間仕切りには丸柱の間に壁代かべしろという表は綾絹、裏は白地の厚い幕を上の長押なげしから下の長押(畳敷の境)まで垂らしてある。姫の居間は上段に高麗縁の畳、下段の畳には乳母や侍女が控える、あとは広い板敷であるが、やや離れて廂近くに彼女たちの控え所も調えてある。
姫の居間には美しい几帳きちょう、当時の鏡台の鏡掛があり鏡を包む白唐織が垂れている。厨子ずし棚には銀綱をかけた香炉、くしや化粧品を納めた乱箱、色紙、短冊入れが置かれてある。姫の前に机に文台、硯箱もある・・・これら室内備品は五人の姫に平等に配置されているが、西の対屋のまだ幼い六歳、五歳の寛子、典子の居間にはその頃の上流の童女の“ひいな遊び”の小さな人形に小袖や袿を着更させて遊ぶ人形箱や五色の絹糸かがりの手毬を盛った箱が置かれて、東の対屋の昌子の厨子棚には貝合かいあわせの「源氏物語」の絵を描いた貝桶かいおけがあるというようなちがいだった。
だが、どの姫の室内にも同じものは、絶えず香が焚き込められることだった。これを空炷物そらだきものと称して、五人の姫の空炷には煉香ねりこうが使われた。いまをときめく平家の姫たちの居間に漂う匂いにはもっとも上質のものが焚き込められる。
それは高価なじん丁子ちょうじ白檀びゃくだん麝香じゃこうを調合させたもので、毎日欠かさぬその薫物たきものの費用はとうてい普通の公卿の家では叶わぬものだった。
母の時子は姫たちにはそうした費用を惜しまなかった。それは姫たちの美意識の感覚を育て、おのずと立居振舞を雅にさせるための投資であった。
この対屋の姫たちの湯殿は行水式で、運ばれた湯を浴びて侍女たちによって身を洗いきよめる。かわやはその近くのとばりの奥に虎子こし箱という黒塗りの箱が一度毎にきよめてある。
こうして清盛の娘たちは、新興公卿の姫として最高の生活様式に置かれたが、それと同時に彼女らの精神育成の教養を身に付けることに母の時子は熱情をもって当たった。
2020/10/14
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