~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 『女 人 平 家 (上) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
対 屋 の 姫 た ち (四)
六波羅時代から、もう長女の昌子や侍女の盛子は読み書き手習いを教えられていたが、それも西八条へ移ってからはいよいよ本格的に、しかるべき師の指導を受けさせようと時子は考える。
七歳の徳子と下のまだ童女の寛子、典子にも、早く“難波津なにわず”から始めさせたかった。難波津とは少女の最初からの読み書きの手習い文字だった。
「源氏物語」の紫の上の十歳の頃を垣間見た光源氏が、その美少女を貰い受けたいと願うと、紫の上の祖母が「まだ難波津をだに、はかばかしゅう続けはべらざんめれば」というそれだった。
難波津に咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと咲くやこの花── この和歌が仮名文字手習に用いられていた。
当時の貴族の子女は、第一に手習に身を入れ、第二にことを弾じて人におくれを取らず、第三に「古今集」二十巻はことごとく暗誦しなければならぬのが、教養の基準であったから、習字、弾琴、和歌の三科目は絶対に欠かせぬ。
この必修科目の最良の師を姫たちの為に探し求めた。幾人かの候補者のうち、もっとも適当と思われるのは世尊寺伊行これゆきと妻の夕霧夫妻だった。
伊行は代々書道にすぐれた家系に生まれ、彼自身能書家として知られ、また琴の道にも通じ、書道と十三絃の筝についての「夜鶴庭訓抄」二巻と「源氏物語注釈書」の著者でもあった。しかも従五位上宮内権少輔ごんのしょうしょうの位置にある。けれども書道上の役目で非常勤なので、平清盛公御息女への教授役を引き受けて貰えたのだった。
妻の夕霧は大神基政の娘である。大神家は代々笛の家元で雅楽寮に仕え、夕霧の父は楽人ながら従五位下に叙せられた。夕霧は父の笛の要領を琴曲に応用して一種独特の弾奏で名手のほまれが高かった。
この夫妻については、六波羅以来の平清盛家の奥向きの宰領難波弥五左衛門が委しく調べ上げて時子に報告すると、
「氏素性は何もかも申し分ないように思われるが、この夫妻の年齢は?」
「伊行殿は三十八歳、夕霧どのは四つ上とか・・・これは後添のちぞいにて琴が取り持った縁との噂でございます。従って子女は先妻の男子二人、上は中務省に、次は修理職を勤めて居りますが、夕霧殿との間にはおそれながら三の姫君(徳子)の御年齢と同じ女子一人でございますよし」
「それはよいこと、女の子の母とあれば姫たちに琴の指南もおのずと心得があろう」
これで決定したが、時子は書道、和歌、琴の稽古という貴族の浪漫主義の女子教育だけをわが娘に授けて、完全とは思わなかった。
「ゆくゆくは姫たちも世の常の女の仕事のはた織、染色、裁縫も知っておかねばならぬと思うゆえ、上の昌子はそれも習わせたいが・・・」
「その思召しごもっとも ── その手仕事ならば侍女たちの中にも心得ある者少なからず、阿紗伎にとりはからいさせまする」
これで対屋の娘たちの教育方針が定まった。
2020/10/14
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