~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
歎 き の 乳 母 (一)
福原から北の方だけが阿紗伎と供を連れて西八条へ戻られたのは、あの御幸の翌朝出立しゅったつされて四日目の夕暮だった。
“なんというお早い御帰り”
と驚かされた。
京都から福原までの道は一日がかりである。してみると逗留はわずか二日だけで、あとの二日は往復に使われている。
北の方御帰館の報は東西の対屋の姫たちにも直ちに伝えられたが、折しも姫たちは夕餉ゆうげの最中だた。
── それに北の方も行水をつかわれて旅着をえられる一刻の後にと、姫たちはそれを待って四人揃って乳母を従えて北の方の母の許へ渡殿わたどのをたどった。
「お帰り遊ばせ。お疲れもあらせられませぬか」
と声を揃えて挨拶した。
「おお、みな留守中も変わりなく何より、福原の山荘は閑静で父上のお気に召したところ、それに兵庫港の工事など福原でもあいかわらずお忙しいが、この母は姫たちの居らぬ館はさびしゅうての、西八条恋しやと思うところへ、どうでも帰らねばならぬ用件も出来てのう」
そう言われる北の方は、どこよりもこの館の居心地がよいらしい。
── やがて姫たちが母の前から立って乳母と共に東西の対へ戻る時、
ゆう子と汐戸はしばらくここに」
北の方の声がかかった。
姉妹がみな去ったあと、祐姫と汐戸は母の前に残された。ほかには人影もなく、次の間に阿紗伎が黙々と控えているだけである。
「わが留守に花山院の殿と冷泉隆房少将が祐姫のもとを訪れられたそうの」
北の方は笑みを浮かべて言うと、汐戸はハッと驚かされた。
「よう御存じでいらせられます。その事はぜひお耳に入れねばと思って居りましたに」
汐戸は北の方におすがりしても、あのような臆面もない近衛少将の訪問は以後おことわり戴きたいとさえ思っていた。
「じつはおととい、花山院、隆房少将打ち連れて福原まで馬を走らせて参られての」
「えっ、では福原まで!」
汐戸は胸を突かれた。御幸の翌日の夜の闖入者がその翌日には福原の平家の山荘を襲ったとは!。
「祐姫をおとない、さまざまもてなされて睦まじく語り合ったよし、隆房少将が喜び告げられました」
── 何が歓待であろう、まして睦まじく語り合ったなどと嘘八百、じつは典姫にみごとに撃退されたのではないか!
あまりのことに呆然として汐戸は言葉もない。
「花山院の殿とは無二の親友とて、その人物のすぐれしを推奨され、隆房少将こそやがては廟堂びょうどう大臣おおどにも立たれる俊才、祐姫の婿君にとおすすめあった。佑子には義兄に当たる殿の証言にいつわりのあろうはずもなし、さりながら念のために折しも福原に滞在の池殿(頼盛)えおも招いて酒宴を共にして少将の人柄の鑑定を願しところ、池殿もいたく感服されて祐姫の婿君はこの人にさだめられよと申された」
北の方は二人の推薦者のあったのを誇るかのようだが、汐戸はうなずきがたい。彼女は勇を振るって口を切った。
「おそれながら申し上げます。池殿は叔父上、花山院の殿は義兄上、そのおふた方のお言葉もおろそかにはなりませぬが、姫の父君入道相国さまの御意見はいかがでございましょう、お伺いいたしたく」
汐戸は若き日から仕えた平家の頭領平清盛公、今の入道相国こそこの国一の英雄偉人とかたく信じている。花山院殿のように男の友情で好き者少将のため犬馬の労をとるのや、頼盛のごとく近衛少将という肩書だけで人を見る俗物とは富士山の山頂の巨岩と裾野の小砂利ほど違うと思う。汐戸が祐姫のためぜひ知りたいのはその偉大な父君の意見こそである。
「それはのう、入道殿には大きな御政道の御経綸がお忙しく、小事に拘泥ばさらぬお気質とて・・・・」
北の方の前置きの言葉に、もどかしい思いで汐戸はついせき込む。
「さりながら、入道相国さまには小事とは申せほかならぬお大切な姫さまの御輿入れにかかわるとあいなれば、その婿がねへの御意見ものうてはかないませぬに・・・」
「それはもとよりわが娘のこと、心にかけずに居ろうか」
「さようでございましょうとも、して姫さまをぜひともと御所望の隆房少将を、どのように御覧ごろうじたでございましょうか・・・」
「それはこう仰せられた・・・あの美しい祐姫をわが妻にと望む男はほかにも数多くあろう・・・とな」
北の方も良人の言葉は粉飾せずに伝えるより仕方がないようすだった。
「かたじけなき入道相国さまのおことば、姫さまへの父君の御自愛深さ、この乳母の身にも涙こぼるる思いでございます。姫さまもさぞやお嬉しいことでございましょう」
と、祐姫を見ると、さっきから母と乳母との問答にまかせて、身じろぎもせず、美しい化石のような姫が汐戸の言葉にうなずかれて、その双眸がうるんだ・・・その瞬間、はじめて祐姫の珊瑚をちりばめたような朱の唇が動いた」
「母上さま、佑子の一生のお願いがございまする」
一心に思い詰めた切ない声だった。
汐戸はハッとした。もしや姫が必死の思いで、秘めたる恋を母君に告白されるのかと・・・もしその時はこの乳母の命にかえても姫に助力せねばと決した。
「一生の願いとは何かの、佑子」
北の方も日頃つつましいこの姫の言葉に不意を突かれて眼を見張られる。
「幼き日よりこの館におひきとり戴きて今日まで蒙りし恩にそむくこの望み、お聞き入れ戴けましょうか・・・その望みとはあの九つまで育ちし吉田の里の比丘尼びくに寺に立ち帰り、庵主さまのお跡をつぎたき悲願でございまする」
汐戸は胸がつぶれた。もはや切なき恋も世もいさぎよく打ち捨てられての悲しきお覚悟さだめられたかと・・・
北の方のやや冷ややかな声が答える。
「そのような望みはたとえこの母が許そうとも叶えられぬ。あの吉田の比丘尼の寺の庵主はすでに数年前にみまかってこの世におわさぬぞよ。その折に廃寺といたしたが、そなたを預けし時父君が寺領として付けられし広大な荘園は、ゆたかな麻や生糸の産地よ。それを佑子、そなたのやがて嫁ぐ日の持参の化粧料けわいりょうとして父君が荘司(管理者)に任せておかれる。それほどにそなたを平家の娘として心を配られる父君の慈しみに背いて、いまは屋根も柱も朽ちし廃寺に帰ってなんとされるか、よしなき望みは起こさぬことよ」
しばらく、誰の言葉もなく一座はしいんと静まりかえる。
「お叱りを受けるもことわり、まことにふつつかにもよしなきことを申し上げました。母上さまおゆるし下されませ」
崩折くずおれた花のようにはたと手をついて、佑子が涙を秘めて母の前に平伏ひれふす姿に汐戸は身も世もない。
「おお、分って貰えば母と娘の間、許すも許さぬもない。若い時はよかく心の迷いやすきものよ。佑子そなたは眉目美しき上に心ばえ人にまさりて、わが生みの子よりも行末頼もしく思うこの母の心をくみわけて素直に冷泉院隆房卿に嫁ぎやれ、卿はかならずやがては中将、大将、大臣まで昇らるるわ」
と北の方は日頃に似ず声高に言うと、
「汐戸、そちも乳母の役忘れてなろうか、姫によう説き聞かせて落度なきよう頼むぞ」
「は、はい」
と言おうとしても声には出ず、ただかしこまって退き立つ膝がおののく。眼の先は闇の心地の彼女だった。
── 汐戸が祐姫の肩を抱き抱えるようにして北の方の前を去り行く姿を、次の間にさきから控えていた阿紗伎が思わず浮かぶ涙を堪えた眼でじっと見送るのだった。
220/11/23

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