~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
歎 き の 乳 母 (二)
同じその夜の三更さんこう(午後十一時)・・・。
西の対屋の乳母の控え所に今宵眠れるはずのない汐戸が、菊灯台のほのかな灯のもとにうなだれしおれて黙然とすると、ほど遠からぬ入口の妻戸を忍びやかに叩く音がした。
さては、あの花山院の殿と好き者の少将のまたも襲来かと怖気立ったが、それにしてはたりをはばかるような戸を叩く音・・・
汐戸は紙燭しそくを灯して妻戸の前に近づき、
ぞや」
と問うと、思いもかけぬ阿紗伎の声で、
「汐戸どの、ひそかなお話があってこの夜半お騒がせ申します」
「これは、これは、いまお開けいたしまする」
汐戸はいそいで鍵をはずし迎え入れる。
人みな寝静まる刻の対屋の板敷に足音を忍ばせて、汐戸の控えの間の灯の下に二人は相対した。
「汐戸どの、今宵北の方の御前にての一部始終は、次の間でおのずと耳に入れました。
・・・汐戸どのの苦しき立場と祐姫さまのお胸の内お察し申せばこの阿紗伎も涙誘われて、このままどうして見過ごせましょうぞ」
「ありがたきそのお心づくし・・・」
胸せまって汐戸は両手をついて首を下げる。
「北の方が祐姫さまに嫁げよといての御意ぎょいのあの近衛の少将は、福原にて阿紗伎も見知りましたが・・・祐姫には、あまりに似合わしからぬ御人品じんぴん、もし祐姫が添わるれば、あの清らかに気高きお美しさも汚れ崩れ去ろうかと心痛むばかり・・・」
「まことに、この汐戸も同じ憂いでございます。それをあの御利発な北の方がお気付きもなく、あのようにどうでも隆房少将へ祐姫の御輿入れを強いられるは、おそれながらわれらの腑に落ちかねまする」
「いかにもごもっとも、その腑に落ちかねる事の起こりは、これみなあの徳姫のお叔母小檜垣のなせる仕業・・・」
「えっ! さてはあの小檜垣殿、なんのゆえに?」
これも合点のゆかぬ汐戸である。日頃徳姫付を鼻にかけて祐姫を尼寺から引き取られて脇腹よと白眼視するのは知ってはいたが、そこまで意地の悪いおせっかいをされるとは・・・。
「汐戸どの、そにいわれはけっして人にもらせぬ秘事なれども、今宵の祐姫の御心中とそなたの苦しみをお察しすれば、阿紗伎もいっそこのすべてを打ち明けた上で、汐戸どのの覚悟をうながすよりほかに思案はなしと心を決してじつはここへ参った次第・・・」
こう言うなり阿紗伎は汐戸に近く膝をすすめて、
「それはあの御幸の日、帝に姫君方御拝謁の折、これも小檜垣の策により、徳姫さまがまず先に御座所の前に進ませられ、次に祐姫がさながら天女が羽衣はごろもの裳をひいて降り立たれたような眼もさめるお美しさでしずしずと進まれると、帝の御感ぎょかんことのほかと拝されたが、それが小檜垣の悩みのもととあいなった・・・」
汐戸はしいんと聞き入る。
「あの日の夜、小檜垣どのひそかに北の方のもとへ伺われて、『今日の帝の御眼に止まりし祐姫を一日も早う御縁づけていただかねば、徳姫御入内じゅだいの大きなおさまたげ、もしも祐姫を女御にょうごにと帝の思召しあらばなんと遊ばす』とな・・・
「えっ、それで、あの隆房少将の姫への執心を渡りに舟の輿入れ先とおさだめなされてのことか」
汐戸は深い吐息と共に、がっくりと首の骨の折れたようにうなだれる。その姿に阿紗伎は打たれて言葉がつげぬ。
2020/11/24

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