~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 雷 (一)
昨夜 ── ひそかに西の対を訪れた阿紗伎から胸を開いて打ち明けられ、これぞ女の“御奉公”と頼み込まれた汐戸は、そのひと夜まんじりともせずうちに夜はしらじらと明けてゆく・・・。
汐戸は一睡もせぬわが身より、心にかかるは祐姫のこと ── 夕べ御寝所にお送りしたまま、阿紗伎が訪れてからの愁嘆場の展開に気も狂おしく、姫の寝所を伺って見るゆとりもなかったが、姫もこの夜をさぞかし悶え悩まれたであろうと気がかりで、朝の身支度もそこそこに小走りに寝所に向かうと、もうおしとねを侍女が片付け、姫の姿もない。
この暁とくにお眼ざめにて、もうお手水ちょうずもお髪梳ぐしすきもおすみ、ただいまお居間にて朝餉あさげの代わりにお薬湯をとの仰せにございます」
侍女が告げた。
「どのようなお薬湯やくとうを?」
「かろきお風邪気味なれば紫苑頭しおんず、人参、甘草かんそう・・・」
姫たちの気分すぐれぬ時はいつもこの薬湯、それを老いたるちんの雪丸さえ戴く。
汐戸は慌ててお居間に急いだ。
「お早きお目覚め、汐戸不念ぶねんいたしました」
お詫びの頭を下げると、
「汐戸こそこの朝はいかがいたしたかと案じていた・・・」
そう言われると姫のもの憂げなひとみのなかに溢れる悲しい優しさを見ると、汐戸はなにも言えず胸がせまる。
「汐戸もう案じずともよい。佑子は母上の仰せに従いまするゆえ・・・」
「えっ、では冷泉れいぜい院家へ御輿入れを!」
汐戸は肝も潰れる驚きで思わず膝をすすめる。
「九つの時より母上のお情けでこの平家の館にお引き取り戴き、今日まで御実子と変わらぬおいつくしみ受けしこの身がいとせめて・・・あつき御恩にむくいまいらすには、このことよりほかにはなしと思えばこそよ。しかとそうであろうの汐戸・・・」
「は、はっ、さ、さりながらあまりのおいたわしさ、姫さまにそのような悲しい思いをおさせいたすなら、この汐戸なにを苦しみましょうぞ」
汐戸は無念の思いに胸が張り裂けるばかりである。
「汐戸、これが佑子この身の生まれながらの運命さだめと思うてあきらめてたもれ。そなたにも乳母の役目を果たさせ、あの阿紗伎にも安堵いたさせたい・・・」
「えっ、なんと、そ、それでは姫さま昨夜・・・」
汐戸は青ざめて悔いた。あの昨夜を阿紗伎と心たかぶって声高に語ったのを、祐姫はお耳に・・・、もう取り返しはつかぬ。
「もうなにも言わずと汐戸、早う北の対に参り母上にこのよし申し上げて・・・」
「は、はい」
と言いつつも、汐戸は足が立ち上がれぬ。いっそこの世から消え失せたかった。
「冷泉家への輿入れは佑子心にさだめたれど、それにつけてただ一つのお願いだけは御承引しょういん戴くよう、汐戸より母上へ切に申し上げてたもらぬか」
「はい、何事か存ぜねど、そのお願い事かならずこの汐戸の命に代えても北の方にお約束を乞い願いまする」
「それは婚礼の式は、なにとぞ六波羅の牡丹の宴のあとにと、これ佑子の一生のお願い、お聞き届け下さるよう」
「はっ、はい、それは必ず、必ず ── 御婚礼まではさまざまのお支度に日数もかかうこと、もとより北の方に御異存のあられようはずもござりませぬ」
「汐戸、御幸の日に徳さまと奏でし筝を父君もお気に召して、牡丹の宴にてもと仰せられた。やがて嫁ぐ身の佑子が清浄な処女おとめのの日の生涯の思い出に奏でる筝の音色は・・・あの広元さまにささげる佑子の心よ、汐戸」
ものも言い得ず汐戸は平伏して泣こうとした時、侍女が薬湯の銀碗を朱塗円形の高坏たかつきにのせて運んで来た。
その銀碗をかぼそい指にとりあげて口許に近付ける祐姫の、薬湯の湯気にたちのぼるなかに、伏た眼の長い睫毛に宿る一粒二粒、花の露のこぼるるに似て落ちるのを見た汐戸は、悶絶するばかりだった。
220/11/25
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