~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 雷 (二)
世尊寺伊行これゆきが西八条に姫たちの教授に参上したのは御幸の日から八日目だった。
姫の学習は御幸の前後しばらく休講だったのだ。
講義が終わると伊行を中門まで送り出すのは古参の汐戸の役だった。その日も彼女は伊行のあとに従って渡戸をたどると、
「汐戸どの、今日久しぶりで祐姫にお目にかかると、どこやらお気がうつしておいでのようであるが、なにかお身体におさわりあるのではなかろうか、とかく美女は蒲柳ほうりゅうの質と申すゆえ」
伊行の言葉が汐戸の胸を痛く突いた。
ながい間の馴染みのこの書道と国学にすぐれた温厚なあたたかい人柄の伊行に、いま汐戸はすがりつきたかった。
「じつはそれについて・・・もしただいまお帰りをお急ぎでなくば折り入ってお聞き戴きたいことがございます」
「今日はほかに用もなき身、お乳母どののお話しゆっくりとうけたまわろう」
汐戸は寝殿に付属の出居でい(応接室)に伊行をみちびき入れた。そこには客もなく近くに人影もない。
「お聞き下され伊行さま、あの御幸のあとに祐姫さまに思いもかけぬ御縁談が降って湧いたように・・・」
とから ── 御幸の日の供奉ぐぶ近衛府の隆房少将が祐姫を見初みそめて、姫の義兄花山院兼雅を助力者に翌夜西の対を訪れてから、福原滞在中の入道相国夫妻の許に馬を走らせて、祐姫への求婚にごとに功を奏して、ついに祐姫も九歳から育てられた義理ある母君への大恩に酬いまいらすと悲しく心をさだめられて・・・涙声で告げた汐戸も、さすがに徳姫入内のさまたげになるなも知れぬ祐姫を早く嫁がせようとの小檜垣の魂胆とは口に出すのを憚ったのは、彼女の見識であった。
「ホゥ、これはなんとも申しようのない、あまりに御不幸な祐姫の御縁談ぞ」
伊行は長嘆息して、
「近衛少将冷泉院隆房卿とはおとに聞こえた好き者、さる藤家の息女との艶聞も人の知るところ」
「えっ、藤家の御息女と?」
「藤原なにがしの落胤らくいんにてなかなかの美少女、筝もわが妻夕霧が教えたことがある。それが隆房少将の手に落ちた。いわば権中納言の地位にうまうまと釣り上げられたと見ゆる。やがては北の方に迎えられると思うてのことであろうが、どうして相手の隆房少将は油断のならぬ男、この西八条へ御幸の日に供奉してあの麗人祐姫に眼を止めるや、いまをときめく平家の姫を手に入れて婚姻を結ばば立身出世のすみやかな前途と打算してのことであろう、苦々しき沙汰のかぎりよ」
「それに祐姫さまには、生糸、麻の産地の荘園がお化粧料について居りまする」
当時はまだわたは栽培されず、従って木綿地はなく絹と麻が織物の原料だった。
「げにうとましき功利と女色にたくましき男よの・・・北の方にそれがお見抜きになれぬとは不可解千万、じつはこの伊行は北の方にはあの大江広元どのを頼もしく思われて、もしや祐姫の婿がねにもなされるかと推察しておったに。あのような学問一途の秀才を平家一族に加えられて、その学問と見識を活用されるなら、入道相国殿の政治力にいかばかりかの光を添えるかと考えていた・・・広元どのも祐姫の婿ならふさわしい似合いのおふたりだが・・・」
そういう伊行は、広元と祐姫の恋がつつましいだけに、それがより真剣な強いものであることまでの洞察はなかった。
汐戸はいまさら、その真相を告げてもなんになろうと口をつぐんだ。
「して、好き者少将との婚約はついにまとまったのでござろうか」
「はい・・・でも姫は式は一日のばしのお気持ちでございましょうか、北の方にもかたくお約束願い上げましたのは、あの六波羅の牡丹の宴で徳姫と筝の弾奏を、清らかな処女おとめの日の名残として、心ゆくまで奏でられてからあとにと、たってのお望みでございまする」
聞くより伊行は感動した。
「おお、それはいかにも祐姫ならではの心ゆかしいお考え、伊行涙を覚える。その御生涯の思い出の筝曲の唄と曲とはこの伊行は受け持って、心魂を打ち込んで作曲いたそうぞ」
── 寝殿の廻廊の軒に連なる釣灯籠に灯が入った刻となった。
220/11/25
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