~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 雷 (三)
好き者少将に祐姫をさらわれるのは、不愉快でならぬが、いまさら伊行の位置ではいかにもなしがたい。だがせめてこの牡丹の宴に、祐姫の清浄な処女の日への永別の名残に、愛惜の思いの作曲を仕上げて姫に捧げる喜びに、芸術家のみ知る感動に奮い立って座を立つ伊行を送り出してから、汐戸は西の対へ戻る足が重かった。
美して筝の巧みな藤原の息女との情事がすでに評判の隆房少将が、口をぬぐうて知らぬ顔してあの祐姫に求婚、みごとに射とめた形でしたり顔する面憎さよ。その男を良人になさらねばならぬ姫こそあまりにおいたわしい。
汐戸はこの事をなんとしても姫には告げかねる、いまさら告げたところでどうにもならぬ、ますます姫を地獄に追い落とすだけのことだ。
こうした沈む心で姫の居間に近付くと、筝の音と組曲“雲の上”のうたが聞こえる。
なかなかに、はじめより馴れずば
ものを思はじ。
忘れは草の名にあれど
忍ぶ人のおもかげ
と絶えがちのその音色のもの哀しく、歌声も切なくおののく。
汐戸は胸がふさがる思いで、お居間の前で立ち止まるとも知らぬか、姫は手事のなかばで花の茎の折れるが如く顔を絃のおもてに伏せてよよと泣かれる・・・。
「姫さま、姫さま」
汐戸はかけ入ってそのか細いうちぎの肩を抱き起こして、自分も泣きたくなる。
「そのようにお歎き遊ばしては、この汐戸身も世もなき心地・・・せめては広元さまにさいごのお別れにお会わせいたし、お心ゆくまでお名残りを惜しまれ、余儀なき次第にて心にもなきこのたびのお輿入れのお歎きをお伝えになれば、少しはお気もすむここと汐戸には思われますゆえ、さよう計らいましょう」
汐戸はこう思い詰めてしまうと、姫は涙に濡れるにまかせた悲しい花のかんばせを向けて、
「いえ、いえ、これはなりませぬ。もういちどでもお会いしようものなら、あの方のお膝にちり縋り、もろともに死んでたもれと願わずにいられようか・・・」
その哀切な言葉に前後の見境もなく汐戸も引き込まれて、
「・・・広元さまかならず姫をお胸に抱きしめられて、いさぎようお命を断たれましょうとも・・・」
と、わが立場も忘れて身につまされて泣く。
「汐戸、そのようにあの方のこれからの御生涯をむざと葬ってよいものか、わが恋ひとすじのために・・・」
汐戸が逆に訓戒されてうろたえてしまう。
「ご、ごもっともでございます。がれば姫さまそのあまりのお歎きいささかないてもやすまされますには、いかが計らいますればよろしいやら」
「・・・汐戸へのわが頼みごと叶おうか」
「どのようなことも、わが身の限り叶えて差し上げまする。仰せ下さりませ」
祐姫はしばらくたゆたってのち、
「広元さまに、わはこの切なき胸のうちお伝えしようにも、いくたび文を書きかけてもあまりの悲しさに文字も綴れぬ・・・せめて汐戸、そなたの口から広元さまにわが心の中をお伝えしてたも・・・」
「は、はい、かしこまりました。広元さま賜暇しかの日かならず汐戸が小二条のお邸に伺いまして、姫さまたとえ冷泉家へお身体はお輿入れあるとも、その心は変わらず広元さまに・・・と、汐戸が涙ながらに申し上げずに居られましょうか・・・」
と、いまから涙ぐむ。
姫も汐戸のたのもしい約束にっや心なごまれてか、ふたたび筝に向かわれたので、汐戸はお居間を静かに出て板敷を渡ると、
「汐戸」と呼び止めたのは典姫だった。
「祐さまはこのごろいとうお心沈まれるごようす。これは広元さまあの直衣を召したお姿をお見せにならぬからよ。汐戸早う広元さまを館へお連れいたすがよい。それまではあのいたいたしい姉君を見るが悲しく、典子はもうお居間にも伺えぬ・・・」
愛称小姫ちいひめの大好きな姉君を案ずる優しさに汐戸はなんと答えようもなく、ただ、
「はい、はい」とのみ控え所に逃げ入った。
220/11/26
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